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ファロスの見える家 真珠の涙
【これまでの経緯】
声が出なと嘆くひろ子に美声玉を供した。そして、加奈の娘の芽依が亡くなり、加奈は絶望の淵にいた。そして、美咲はM市中央病院で看護師をしていた。
デーデーホッホー、デーデーホッホー。
キジバトが鳴いている。午後になり、けだるく暑い。美咲はこの蒸し暑さをものともせず、愛之助を連れ散歩に出かけて行った。
壮介はキッチンの出窓から庭の方に目をやると、その先でもわもわと景色が揺らいでいる。陽炎(かげろう)が燃えているのだ。どおりで暑いはずだ。
ドアベルがチリリンと鳴った。ドアに立った客はビジネススーツをきっちりと身に付けた四、五十歳ぐらいの女性だ。佇(たたず)まいからして大学の教授か、弁護士、それとも医者か、テレビドラマに出てきそうなツンとすましたお堅いキャリアウーマン。そんな風貌を漂わせた女だった。女は店に入るなり値踏みでもするようにジロジロと店内を見回し、店に一つだけある、がっしりと落ち着いたウォルナットの長テーブルに腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
「なんでもいいから気分がスカッとするものをちょうだい。できるだけ早くね」
ツンとすました女はカウンターに立っている壮介に強い口調で命じた。
「かしこまりました」
壮介は機嫌を損ねないように丁寧に応じるとキッチンに入った。
(ずいぶんと機嫌の悪そうなひとね。しっかりね)
南海子の心配する声が聞こえる。
――なんとかやってみるよ。とにかく気分をすっきりさせるものが一番だよね。
壮介はミントとライム果汁、それにレモンの皮を薄く切り、それらを少量の水で煮出し、半量になるまでに煮詰める。残った黄緑色の液体に少量の白ワインを加え、これをトールタンブラーに注ぎ入れる。ブロックアイスと炭酸水を加え、ライムの輪切りと新鮮なミントの葉を添えた。
「お待たせいたしました。モヒートをお持ちしました。少量ですが、アルコールが入っております。よろしかったでしょうか」
「アルコール? 少しくらいならなんの問題もないわ。なんなら今からでもグーっとやりたい気分よ」
女は眉間にしわを寄せると、つっけんどんに答えた。
「ほかにご用命がございましたら、いつでも声をおかけください」
「これが美味しかったら考えるから、呼ぶまで静かにしてて」
壮介は恭(うやうや)しく頭を下げると女の傍から離れた。
渚沙は庭の暑さを避け、先ほどからカウンターの奥のいつものスツールに座っている。女の客に出した同じモヒート『真珠の涙』を飲み干すと、壮介を小声で呼んだ。
「あたし、ああいうタイプ、どうも苦手なのよね。あとはよろしく……」
そう耳打ちすると、大きなパラソルを抱え、その場から逃げ出した。
壮介はカウンターの中でいつ注文が来てもいいように、しかめつらした女の様子をちらちら窺っていた。
客は振り返ると、「ちょっと、そこのあなた」、尖った声が飛んできた。
「これ、胸がすっとしてよかったわ」
「ありがとうございます。気に入っていただいてよかったです」
「気に入ってなんかないわよ。ただ、こんな田舎町の店にしては、雰囲気は、まあまあね」
女は飲み物の評価ではなく、フロア内のインテリアを見回していた。
「それに、蜂蜜かしら、上品な甘さだったわ」
「ええ、ありがとうございます。ミカン蜂蜜を使っています。この蜂蜜は特に風味がいいと言われています」
「それじゃあ、あなたの腕がいいわけじゃなくって、蜂蜜がいい、ってことね」
そんな嫌味を言うと女は、突然糸が切れたように、はぁーっと大きなため息をついた。それは静かなフロアに重く響くほどだった。
「どうかされたのですか」
「なんでもないわよ。あなたに関係ないでしょ」
「そうでした。失礼しました」
壮介は反射的に詫びると、余計なことを聞いてしまったと悔(くや)んだ。
女は貝のように口を閉ざすと、フロアの雰囲気はみるみる深い海の底へと沈んでいく。どれくらい経っただろうか、女は、はぁーっと、また大きなため息をつくと、誰に聞かせるわけでもなく呟くように話し始めた。
「お母さんが……。母が肺炎なのよ。もうダメだろうな」
いきなり肺炎だの、ダメだろうなと言われても、壮介は何と返事していいのかわからない。黙っていると、女は壮介のことなど目に入らないのか、独(ひと)り言のようにしゃべり続ける。
「夫に仕事を休ませて、病院に連れて行ってもらったら、そこの医者は、手遅れだって言うのよ。まったく信じられない。なんて情けない医者なの。いま思い出しても腹が立つ。夫も夫よ、そんなこと言われ、黙って、のこのこ帰ってくるなんて」
女は怒りをぶちまけた。壮介はただ黙って女の愚痴を聞くしかない。下手に声をかけたりしたら、再び怒りを買うこと必定だ。
「あたしはね、産科医だから専門が違うけど、もし内科の医者だったら、きっと治してみせる。医者としてね。父が産科医だったから父のクリニックを継ぐために、なりたくもない産科医になったのよ。産院はね、土日もなければ、昼夜の区別もない。二十四時間気が抜けないのよ。いつ何が起きるかわからない。妊婦さんが急変することだって珍しくない。それに反して赤ちゃんか母親に何かあれば、町の産院なんてあっという間につぶれてしまう。兄はこんな大変な産院の仕事を嫌ってさっさと出て行ったし、弟はバカだし。あたしはね、大学に残って最先端の遺伝子工学の研究をしたかったのよ。きっと今頃はカリフォルニアか、スウェーデンか、日本のどこかの研究所の仲間と一緒に研究をつづけ、世界の舞台で活躍していたわよ。その夢を捨てさせたのは誰でもない、あなた、お母さんよ」
その後、女医は唇を固く結び、話は終わったと思っていた。ところが、まだ腹に据えかねるのか、再び不平を言い始めた。
「そんなあたしの気持ちも知らないで、夫は、お前がもう少しきちんと面倒を見ていれば手遅れにならなかったはずだなんて、他人事みたいに。あんただって義理とはいえ、息子なんだから、あんたが気を付けてやればよかったのよ。あんたは暇な接骨医なんだからね。あたしは一日中、二十四時間ズーっとひとりで妊婦の面倒を見てるのよ。もう、毎日、毎日、くたくたよ。
お母さんだって、体調がよくないなら、もっと早くに言ってくれればよかったのよ。自分の体なんだから、自分が一番よくわかっているはずでしょう。いっつも、あそこが悪い、ここが痛いと、同情を買うようなことばかり言っているから、いざって時、誰も信じてくれないのよ」
あたりかまわず大きな声でまくし立てた。そして、それは突然だった。
「うっ、あっ、あー」
呻くような声を絞り出すと、女は両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。そして、しばらくして泣き声が収まり、心が落ち着いて来たのかと思っていると、クククッと、奇妙な声が聞こえてきた。肩が震えている。まさかと思ったが、女は笑っているのだ。だんだん声が大きくなり、顔から手を離すとハッ、ハッ、ハと笑いだした。
まったくの突然のことに、何がなんだかわからず、壮介は驚くと同時に、薄気味悪くなり身がすくんだ。
女はしばらく笑い続けて気がすんだのか、再び話し出した。
「すぐに病院に連れて行き、処置してもらっても、どっちみち助からなかったのよ。あの年で肺炎だもの。どうにもならないわ。それが寿命というもの。所詮、医者なんて無力なものよ。助かるひとしか助けられない。手術や胃瘻(いろう)処置をしたってなんの意味があるの。体を傷つけ、苦しい思いをさせるだけよ。このまま死んだ方があのひとも楽だわ。あたしも仕事が忙しいし、そのうえ、夫は頼りにならない。これがお母さんの天命なのよ。あたしは何も悪くない。それに付きっきりであんたの面倒を見るなんてまっぴらだからね」
女はひとり芝居を演じきると、すっとテーブルから立ち上がった。ブランドのハンドバックを手に取り、ドアに向かう。ドアノブに手をかけようとしたとき、ドアベルがチリリンと鳴り、勢いよくドアが開いた。初夏のムッとする熱気を身にまとった美咲が、愛之助を連れて散歩から走って帰ってきたのだ。勢いが余り美咲と女はぶつかりそうになった。
「ああっ、ごめんなさい。いらっしゃいませ」
美咲ははっと立ち止まったが、女はよろよろとよろけた。咄嗟に美咲は女の腕をつかみ、体を支えた。
「痛いじゃない。離しなさいよ。あなた、ここのひとなの。失礼じゃない。そこ、邪魔よ。どきなさい」
「ご、ごめんなさい……」
女医はフンと大きく鼻を鳴らすと、美咲を押しのけ出て行った。
つづく
【するりするする】予告
産婦人科医は森崎(もりさき)陶子(すえこ)とわかった。それを知らせたのは美咲だった。美咲の職業は…。