ファロスの見える家
作 黒川 正弘
「留目茂奮闘記番外編」を応援いただきありがとうございます。今夜からは、小説「ファロスの見える家」を連載します。お楽しみください。
この物語は、妻を亡くした壮介が、ひとが住んだ様子のない家を購入し、事もあろうことに、おひとりさま限定のスイーツの店を開くことに…。
南海子スペシャル その1
壮(そう)介(すけ)は今日もキッチンにこもり、気の向くままにオリジナルスイーツを作っている。近頃は洋菓子作りだけに飽き足らず、和菓子にも挑戦してみるが、それぞれにコツがあるようで思うようにはいかない。
壮介はクリームを混ぜる手を止めると出窓から見える青い空と白い雲、その先の碧い海に目をやった。すると、目の前にあの日の情景が鮮明に蘇(よみがえ)ってくる。
「あなた、もうお腹いっぱい。ありがと」
南海子(なみこ)は壮介の差し出す白粥をいやいやするように押しやると、ベッドの中にすごすごと潜り込み、真っ白なシーツを目元まで引き上げた。
「体のためには、もう少し食べたほうがいいんだけどなぁ」
「だって、ここの食事、おいしくないんだもん」
「そうかもしれないけど、早く元気になってもらわないと、僕の方が先に干上がってしまうよ」
「じゃあ、あなた食べてみてよ」
壮介は言った手前、匙(さじ)でひと口食べてみる。
――うっ、なんだ、これは。味というものがまったくしない。
目をむいたがここは我慢して、
「う、うまいじゃないか。なかなかいけるよ」
南海子はシーツをかぶり、ふふふと笑う。そして、シーツの中から顔を出すと、
「あなたは嘘が下手ね。ほっぺに不味(まず)いって書いてあるわよ」
壮介は咄嗟(とっさ)に頬に手をやりかけると、南海子は壮介の慌てふためく様子に、目を細めケラケラと楽しそうに笑った。
「そうね、早くよくならないと、あなたに迷惑ばかりかけちゃうわね」
「そうだよ、君が作る手料理が恋しいよ。コンビニ弁当や冷凍食品には、もううんざりだ」
頼むよ、と口にしたとき、壮介はある考えが突然ひらめいた。
――南海子が美味しく食べられるもの……。
「スイーツなら大丈夫なんじゃないか。その辺で売っているのはだめだ。糖分も脂肪分も多い。南海子の体にいいスイーツ。そっ、そうだ! それを僕が作ってやる」
思わず口にから飛び出した。しまった、とすぐに後悔したが、遅かった。
「えっ、ほんと。嬉しいわ。あなたが作ってくれるなんて、信じられないけど、期待しないで待ってるから」
そう言うと、南海子は頭の上までシーツを被ると、うっ、うっ、ははは、と声を出して楽しそうに笑った。
久しぶりに聞く南海子の朗らかな笑い声だった。
壮介が南海子と知り合ったのは、壮介が勤めるIT(アイティー)企業の社長が指揮した懇親会という名の合コンだった。この合コンの真の発案者は社長の奥さんで、「うちの男どもはオタクばかりで、女の子と知り合う機会がないんじゃないの。あなた社長なんでしょ。なんとかしなさい」、のひと声で始まった。壮介は社長のサポート役だったが、実質的な幹事をやらされる羽目になった。
社長の奥さまはとても社交的なひとで、知り合いの社長の秘書、弁護士や弁理士、理容師や看護師、ファッションモデルからデザイナー、アパレル関係者などありとあらゆる伝手(つて)を使って、若い女性を集めてくる。合コンは今回で三回目になるが、ことは奥さまが思うようには進まないのが現代の若者たちで、なんか違うんだよなー、と合コンの合間に誰かが小声で囁いていた。
そんな中で、南海子は女性側の幹事役を奥さまから仰せつかっていた。ひと組だけでもカップルを作ろうと、雰囲気のいいお店を探してくる役目は壮介が、料理や飲み物、最後のデザートを決めるのは南海子の担当と自然にそうなった。そして、打ち合わせを終えると最後にスイーツを決めるのだが、選定するのは南海子の役目で、彼女がスイーツを吟味するときの目は、好奇心いっぱいでスイーツ好きの女子高生のようにキラキラと輝くのだった。
桜にはまだ早い春先になっていた。気心も知れ、次回の打ち合わせが終わった時だった。別れ際に南海子は、「ここからちょっと行った先に、イチゴのケーキの美味しいお店があるのだけど、行ってみませんか」、そう言って壮介を誘った。
壮介はいつもならスイーツなどの甘いものは口にしないのだが、この日はどういう訳か南海子の誘いに素直に従った。南海子に連れて行かれた店は繁華街から外れ、人通りの少ないいくつかの路地を曲がったところにあった。イタリアかスイスの古民家を改築したような、アンティークな店だった。なるほど、これが南海子のお好みの店なのかと、少しだけ彼女の秘密を知ったような気になった。
「このお店のイチゴはね、朝採れのイチゴを使ってて、だから数が限られているの。さっき連絡したら、あと二切れあるって。それが食べられるなんて、すっごくラッキーだわ」
南海子は本当に嬉しそうに話した。
「朝採れがそんなに重要なの」
「そうよ。熟したイチゴはね、朝陽が当たる直前に摘んで食べるのが一番おいしいの。時間がたてばどんどん鮮度が落ちて、甘みも風味も落ちていく。だからイチゴのケーキはとてもデリケートなスイーツなの」
南海子は嬉々として出されたイチゴのショートケーキについて熱く語った。
ケーキにのったイチゴは新鮮な甘さと甘酸っぱい香りがする。生クリームはなめらかな舌ざわりで、乳臭さや余分な甘さを感じさせないすっきりとした上品なミルクの香りとほのかな甘さがちょうどいい。クリームは口の中に広がるとふんわりと蕩(とろ)け、淡雪のようにその姿を消していく。スポンジケーキはふわふわで卵の香りとどこまでも優しい舌ざわりだ。
「美味しいです。こんなに美味しいケーキは食べたことがないです」
「そうでしょう、気に入ってもらえてよかった」
南海子はホッとしたようなやさしい笑顔を浮かべた。
それ以来、打ち合わせが終わるとこの店で、南海子が勧めるスイーツを食べるのが定番のコースになっていた。
社長主催の飲み会兼合コンは八回実施された。何人かはメール交換したようだったが、カップルが成立することも、そのような噂にすらなることもなかった。意気込んでいた社長の奥さまは、「近頃の若い子はいったいどうなっているの」、と期待外れにすっかり意気消沈し、その後は声がかからなくなった。しかし、壮介と南海子は気分屋で我儘(わがまま)な奥さまのこと、いつ何時声がかかってもいいように下見だけは続けていた。そして最後にはいつものスイーツの店を訪ねていた。
やがて一年が過ぎようとしていた。
壮介はいつものスイーツの店で南海子を前にして頭を下げると、
「結婚してください」
なんの前触れも予告もなく、いきなりプロポーズした。
南海子が大きな口を開け、イチゴを食べようとしていたまさにその瞬間(とき)だった。南海子は何を言われたのかわからず、目の前の大好きなイチゴをパクリと頬張った。
「美味しい……」
と、返事した。
壮介は頭を下げたままだ。
「いま、結婚って、言った? 壮介さんと? だれが?」
「僕と南海子さんです。結婚してください」
壮介はイチゴのように顔を真っ赤にして再び頭を下げた。
「えーっ、あたしとぉー」
南海子は突然の申し出に困惑したが、悪い気はしなかった。むしろ嬉しいとさえ思えた。心のどこかでこの瞬間を待っていた、そんな気もする。
南海子は少し考えた。
「これからずっと、あたしと一緒にこのお店に来て、スイーツをご馳走すること。それを約束してくれるならお受けします」
「はっ、はい。南海子さんが行きたいときはいつでもご一緒します」
最後はしどろもどろになったが、そんなこんなで壮介と南海子が初めて誕生したカップルとなった。
社長からは、「お前が結婚するとは思いもしなかったぞ」、と驚かれ、社長の奥さまは、「ひと組でも決まったのだから、よかったじゃない」、ホホホと手で口を押え満足そうに笑うのだった。
壮介にとって南海子との結婚生活は思っていた以上にウキウキするような楽しいものとなった。週末にいつものスイーツの店で待ち合わせをして、たわいもない話をするのがささやかな、でも幸せな時間になっていた。
壮介は病院から自宅のあるタワーマンションに戻ると、早速パソコンを開き、イチゴのケーキの作り方を調べた。いろんなサイトに数々のイチゴのスイーツが紹介されている。ユーチューブでどこか有名なホテルのパティシエや料理自慢の主婦だろうか、おばちゃんがケーキの作り方を紹介している。
それを何度も見返した。それを見よう見まねで実際にやってみると、生地を混ぜるのも焼くのもパティシエどころか、動画に出てくるおばちゃんのようにすらいかない。なんとか混ぜ終わり、スポンジケーキを焼いてみると、ボソボソでペチャンコ。生クリームは汗が浮かぶほど力いっぱいかき混ぜたが、いつまでたってもドロドロのままだ。額に動画のような角の立ったクリーム状にはならない。使っている材料が違うのだろうか。買ってきた生クリームのパッケージを見ると、角の立ったクリームの写真が印刷されている。
だからできるはずだ。なんとか形にしたものの見るも無残な姿で、食欲をそそるようなものではなかった。そのままゴミ箱へ投げ入れようかと思ったが、最初からうまくいくはずがないと自分を奮い立たせた。
南海子の喜ぶ顔を見たい。南海子の笑顔を見るためなら、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
何度かチャレンジするうちにコツというのだろうか、ちょっとしたきっかけをつかむことができた。生クリームを上手にさっとホイップするには温度だ。氷水で冷やしながら手際よくかき混ぜればいいのだ。それに、調理場や部屋の温度も重要だ。部屋の温度が高すぎるのはよくない。スポンジケーキ作りはしっかりと混ぜるものと、サクッと混ぜるもののメリハリが大切だ。例えば、卵はしっかりと混ぜなければいけない。薄力粉のような粉物は必ずふるいにかけ、さっくりと混ぜ合わせるのがコツだ。そんな初歩的なことも手探りで、自分なりに会得していった。
何度めかの失敗ののち、ついに形となって現れたイチゴのデコレーションケーキ。額に浮かんだ汗を手の甲で拭うと、できたてのケーキを箱に入れ、崩れないように両手で抱えるようにして南海子の病室へ急いだ。
「ええっ、これがそうなの」
南海子はちょっと驚いた顔をした。イチゴの載ったゴツゴツとした、いかにも素人が作りましたというケーキに、南海子は何と表現すればいいのかわからない。
「そうだよ。南海子の好きなイチゴのケーキ。南海子のためだけに作ったんだから。そうだな、これは、『南海子スペシャル』だ」
壮介はどうだと、誇らしげに胸を張った。
だが、南海子は、うううう、と唸ると、次の瞬間、ははははは、とはじけるようにして笑い出した。
「なんで笑うんだよ。ぼ、僕は君のために、一生懸命に作ったんだぞ」
壮介はこれまでの苦労をバカにされたようで、腹が立った。
「ごめんなさい。笑ったりして。本当にあなたがケーキを作って持ってくるなんて思わなかったから。きっと途中で諦めて、あのお店で買ってくるんだろうなと、それしか思っていなかったから、本当にびっくりしたの。そしたら急におかしくなって、ありがとう。すごく、すごく嬉しい」
すると僕の顔を見て、また、クスクスと笑うのだった。
「わかったから、もう、笑うな。食べるだろ」
ベッドから半身を起こした南海子は、壮介を見上げると、うんと元気よくうなずいた。
イチゴのデコレーションケーキにナイフを入れ、扇形に切ったひと切れを南海子に差し出す。南海子は目を輝かせながらケーキの上に載ったイチゴを小さなフォークで突き刺すと、大きな口をあけてパクリと食べる。次に、生クリームの乗ったスポンジケーキを切り分け口に運んだ。
壮介は南海子がケーキを口にする姿を飽きずに見ていた。
「美味しい……。本当にあなたが作ったの。これ、すごいよ」
そうだろう、と胸を張ったが、本当は美味しくない、と言われないかドキドキしていた。
「これならお店ができるかもね」
南海子はいたずらっぽい目を僕に向けると、嬉しそうにほほ笑んだ。
「お店なんて無理に決まってるだろ。それより今度は何がいい。南海子の好きなもの、なんでも作ってやるから」
「まあ、一人前のパティシエのようなこと言って、大丈夫なの」
「さっきはお店ができるって言ったじゃないか。だから、大丈夫だ。まかしてくれ」
「じゃあね。今度はバナナのロールケーキがいい」
「バナナのロールケーキだな。わかった」
壮介は拳を握ると胸をどんと叩いたが、自信などあるはずがなかった。そんな壮介の心の内を見透かしたのか、南海子は目を三日月のように細め、ふふふと笑う。そして、寂しそうに俯くと、見るみる目に涙を溜めた。
「死にたくないよぉ……」
ぽつりと漏らした。
「壮介のケーキ、もっと、もっと食べたい。だから……、だから死にたくない……。生きたいよう、生きていたいよぉ」
南海子の声が震えはじめ、瞼に溜まっていた涙があふれ出し、ポロポロとこぼれ落ちた。
それから二日後のこと、悪戦苦闘しながらバナナのロールケーキを巻いているときだった。テーブルの脇に置いていたスマホがガクガクと嫌な音を立てて震え、画面に病院名が光っている。胸騒ぎをしながらスマホを耳に当てる。
「もし、もし……」
『急いでください。奥さまの様態が急変しました。一刻も早く……』
壮介は歪(いびつ)にひび割れたロールケーキを片手に、息も絶えるほど走った。病室に駆け込むと、南海子は薄目を開けた。そして、かすかにほほ笑むとそのまま目を閉じた。心電計からピーっという一定音が流れてきた。
「南海子! なみこぉー。僕だ! バナナのロールケーキができたぞ! 食べるだろ! 南海子、目をあけてくれー」
悲鳴のような声で叫んだ。
医師と看護師は直ちに蘇生処置を行ったが、南海子の意識は戻ることなく、最後の言葉を交わすことすらできなかった。たった二日のことで、南海子は本当にあっけなく、あの世に旅立ってしまった。壮介は自分ひとりがこの世に取り残され、立ちすくんだ。
医者と看護師がいなくなった病室で、壮介は南海子とふたりきりになった。南海子は穏やかな顔をして眠っている。南海子がふふふと笑いながら、美味しいと言って食べるはずだったバナナのロールケーキ。お店をやればいいんじゃない、と冗談を言い、笑っていた南海子。手にしていたケーキの箱を開けると急いで駆けてきたせいでバナナのロールケーキは無残な姿に代わり果てていた。それでもひと固まりを南海子の口にそっと持っていく。
「バナナのロールケーキができたよ。食べるだろ……」
――たのむから口を開けてくれ。お願いだ……。俺も食うからさ、一緒に食べよう……。
どんなに祈っても、いつまで待っても南海子は口を開けることもほほ笑むこともない。穏やかに眠ったままだ。
壮介の手がガクガクと震えはじめ、手にしたケーキを握りつぶすとそのまま自分の口に無理やり突っ込んだ。口の周りだけでなく、顔中が生クリームとバナナでべたべたになった。それでもかまわずに食べ続けた。甘くて美味しいケーキのはずだが、何の味もしなかった。
「なみこぉー……」
弱々しく名前を呼ぶと、いっそう切なく、涙がつぎからつぎへとあふれ出てくる。
どれくらいそうしていたのか、気持ちが落ち着いてくると、南海子の笑顔が眼に浮かんできた。笑うと目が三日月になり、シーツを被り、ははははと笑う。あれが、南海子の最後の声だった。今でもあの時の笑顔と、笑い声が耳の奥に残っている。無限に流れるリフレインのように……。
つづく
【南海子スペシャル その2】 予告
南海子を亡くした壮介は、何もかのやる気をなくし、有望なIT企業を退社する。そして、生前南海子がふと呟いた郊外へ出かけて行く…。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?