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画家の心 美の追求 第94回「葛飾応為『夜桜美人図』19世紀中頃」
前回カラヴァッジョの絵を模写しているとき、心の中に浮かぶ日本人画家がいた。
それは葛飾応為(かつしかおうい)という江戸末期の女流画家で、本名をお栄と言った。
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応為は希代の天才絵師葛飾北斎の三女と言われているが、生没年を含め不明な点が多い画家だ。
この時期の女性は洋の東西を問わず、その地位は恐ろしく低い。現代に住む我われからからは想像すらできないほどで、戸籍すら不明な場合が多い。ましてや一般の女性が絵を描き、生計を立てるなどまったく不可能で、考えられない時代であった。
だから一度は同業の絵師、南沢等明に嫁いだが、家事は一切せず、等明が描く絵を下手糞(へたくそ)と罵(ののし)ると即、離縁され、親父殿のもとに戻ってくる。
こんな時代にお栄は北斎の娘として生まれ、雅号を葛飾応為と名乗り、父の画業を手伝い懸命に働いた。
下絵と仕上げを北斎が、色付けは応為が担当し、多くの名画を生んだ。色付けに関しては、北斎をしのぐと言われ、北斎もそれは認めていた。
娘お栄の画力は父親のそれと同等、美人画と色彩に関しては父親以上であった。少なくともそれに近い実力を有していたと考えてもよさそうだ。
応為にも弟子がいた。たいていは商家や武家の娘で、いわば家庭教師として訪問し、絵を教えていた。
ある日弟子が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いた。
すると応為が、「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と笑いながら答えたという。
いやぁ、この台詞(せりふ)ありがたく心に沁(し)みます。
さてこの絵の話に戻ろう。これまでに光と影をモチーフにした版画家はいるにはいたが、彼女ほどドラマチックに、大胆に誇張した画家は、日本の絵師の中にはいなかったのではないか。そうであるなら、日本発生の最初のバロック画家ではないだろうか。
男でもおいそれとはなしえない領域の絵を描いた。この絵を描くことはとても勇気がいったことだろう。
これ以外の光と影の絵は、『吉原格子先之図』(1818年~1844年)があり、これも出色の出来で、吉原の妖しい雰囲気と喧騒がつぶさに感じられる名画だ。
また、応為の画力が高まると、北斎と共同で描いたとされる絵も多数あるそうだ。
葛飾応為という画家は、もっともっと皆に知られるべき画家で、かつ評価されるべき画家である。