【小説】あなたの人生に幸多からん事を 第七話 十七歳八か月
写真部の部室に書類を取りに行った南拓哉が職員室に戻ると、室内は放課後で人がいちばん多い、騒々しい時間になっていた。
頻繁にではいりする生徒達とその対応をする先生方、そして、その傍らで談笑する他の先生たち。
その中を通り抜けた拓哉が、部屋の一番奥にいる顧問の赤坂先生のところの書類を持っていくと、赤坂先生は、「ああ、手間かけました」と片手をあげ、書類を受けとる。
「ちょっと見ましたが、コンクールには、全員応募するってわけじゃないんですね」
そう言った拓哉に、赤坂先生が渋い顔でうなずいた。
「なんだろうねぇ。別に、応募してみるだけでもやってみればいいのに、みんな、いちいち言うことが小さくてね。『プロになりたいわけじゃない』とか『別に人に見せるために撮ってるわけじゃない』とか、言い訳はいろいろ立派でさ」
「人に見せるのが恥ずかしいとかなんですかね」
拓哉がそういうと、赤坂先生は「何言ってんのぉ、南先生」と乾いた声で笑った。
「写真なんて、人に見せてなんぼでしょ。一瞬を切り取って形として残すもので、人に見せない写真なんて、存在の意味がないよ。絵だって音楽だって、見てくれる人、聞いてくれる人がいて、初めて成立するんだから」
思わず「そうですよね…」と返した拓哉に、赤坂先生は「要するに、評価されるのが怖いんだろうね」と渋い表情で言った。
「かっこつけたい年頃だし、厳しい批評にさらされるのは怖いのはわかるけど。趣味でやってるんだから、別に楽しみ以上のことは求めてないとか、たかだか高校生が言う言葉じゃないよね。何つまんない事言ってんだよって僕、思っちゃう」
その言葉に思わずうなずく拓哉を見て、赤坂先生はふふん、と笑った。
この学校にきてまだ二年、今年は二年生の英語を見ている。
大学時代、写真部に所属してコンクールで受賞経験があるのを買われて、写真部の副顧問になったが、写真に対する考え方が、自分が学生時代のそれとはまったく違っていることに、拓哉は最初、驚きを感じた。
概ね生徒達は、高機能の高額なカメラをそれぞれ持っている。中には、写真をやっている者なら誰もがあこがれるライカを持つ者までいた。
学校は、特別な事情がない限りはバイトを禁じているので、彼らが自分で働いて購入したカメラではないことは確かだ。
それを自慢気に使う生徒達が、大きな戸建て住宅が立ち並ぶエリアに住む生徒たちだと知ったのは、顧問になってから数週間後のことだった。
中古のカメラや、比較的値段の安いカメラを所持する生徒たちもいるにはいるが、彼らは概ね親から譲り受けたり、こずかいを貯めてなんとか買ったという者が多く、どちらかといえば金がかかる趣味といえなくもない写真を部活で選択する生徒のほとんどは、比較的裕福な家庭の子供が多い。
見ていると、多くの生徒はどういう写真を撮りたいか、どういう写真を素晴らしいと感じるかということを考える事もなく、ただ高級カメラのシャッターを切って、撮ったものを見せ合うことだけで満足しているように見える。
それはそれで悪いことではないが、駆り立てられるような情熱もなく、もっと素晴らしい写真を撮ろうという努力もなく、ただ撮影することだけで満足する彼らのそれは、まるで老人の趣味のようでもあった。
「なんか、夢がないですよね」
思わずそう言った拓哉に、「だよねぇ、プロになるわけじゃないとか、なるかもしれないって考えない若者なんて、つまんないよね」と赤坂先生が返す。
「いいカメラで撮ったからって、いい写真ってわけじゃない。彼ら、本当に写真、好きでやってんのかすら、ちょっと僕は疑問感じるんだわ」
自分の席に戻った拓哉は、生徒達に提出させた英語の作文の添削を始めた。
この学校の生徒のほとんどが大学に進学する。公立高校ではあるが、毎年、それなりの率で、有名大学に合格している生徒もいる。
勉強に熱心な生徒も多いし、問題を起こすような生徒は少ない。
生徒たちはみな、健やかな三年を過ごし、そして卒業していく。
しばらくして突然、わさっと空気が動き、隣のデスクに書類がどん! と置かれた。
東条先生が戻ってきたのだ。
東条先生は、柔道部の顧問を務める英語教師で、自身もかつて柔道の選手だったというだけあり、かなり体格が良い。
厚みのある巌のような身体は英語教師というイメージからは遠いが、大学時代、柔道による縁で一年アメリカ留学も果たしていたこともあって、英語は会話も堪能だ。
どさっと音をたててイスに座った東条先生は、いきなり「南先生、鈴木一太、ご存知ですよね」と声をかけてきた。
東条先生はいつも唐突に話を始める。
拓哉は顔をあげて、「二年三組の鈴木のことですよね?」と確認すると、厚い肉に埋まってしまったような太い首を動かして東条先生が「そう、その鈴木です」と答えた。
「鈴木が何かありましたか?」
今度は拓哉が尋ねると、東条先生は「いやぁ…」とちょっと言葉を濁した後、ふんぞり返ったようにイスの背に体重をかけて座りなおし、「進路のことでちょっと揉めてるというか、いろいろありまして」と言った。
鈴木一太は、拓哉が英語を教えているクラスの生徒だ。
入学した時から柔道部に所属しており、東条先生は授業ではなく、部活の方で関わりがあった。
鈴木一太は見てからに柔道をやっているという固太りのもっそりとした体型で、口数も少なく物静かだが、成績は悪くない。 目立つ生徒ではないが、柔道の大きな大会での優勝経験もあり、顧問の東条先生が彼の実力を高く評価しているのは以前から知っていた。
何やら不満そうな東条先生の様子に、拓哉は疑問を感じた。
進路指導は二年生にはいってからすぐに始まっているし、今更何が問題になるのだろう。 鈴木一太は素行も良いし、真面目な生徒だ。
「一太の奴に、洗武大学から特待生入学の話がきてるんです」
「え! 洗武からですか!」
思わず大声になった拓哉に、東条先生が、ね? わかるでしょ? というような表情を浮かべた。
洗武大学は、柔道のオリンピック選手を何人も輩出している柔道の名門校だ。柔道をやる者として、そこに特待生入学というのはとても名誉な話だ。
それに加え、大学進学は難しいとされていた鈴木一太の状況を考えると、何の心配もなく進学できる素晴らしいチャンスでもある。
「とても良い話じゃないですか。あそこの特待生なら、生活費も出ますよね?」
「そうなんですよ」と東条先生は返したが、そこでもっそり腕組みをして、「なのに、一太の奴、その話は受けないって言うんですよね」と言ったので、拓哉はまた、「え!」と声をあげてしまった。
鈴木一太は、地元にある擁護施設の子供だ。親はいない。
今までこの高校にそこから通ってきていた子供で、大学進学をした児童は残念ながら多いとは言えない。経済的に難しいからだ。
だからこそ、洗武大学からの特待生入学の話は鈴木一太にとっては文句のつけようがない、素晴らしい話だろう。
「断る理由なんて、あるんですか?」
思わず聞いた拓哉に、東条先生が苦い表情を返す。
「もともと就職希望だったんですよね、あいつ。僕は、生い立ちとかの事情でそういう選択をしてるんだと思っていたんですが、どうやら違うみたいなんですよ」
「何かやりたいことがあるとか?」
つっこんだ拓哉に、東条先生は吐き出すように一言はなった。
「パン屋です」
「え?」
「あいつ、将来、パン屋になりたいんだそうです」
あまりに意表をついた答えに、拓哉はぽかんとした。
鈴木一太とパン屋が、どうあっても結びつかない。
「なんでまた、パン屋?」
「でしょ?」と東条先生が身を乗り出す。
「実は昨日それで、セントメリーの園長先生にも来てもらって、一太の担任の阿川先生と面談したんですよね」
東条先生の言葉に、拓哉はうなずく。
「一太の奴、口が重いから、説明とかないんですよ。俺はパン屋になりたいんで、大学はいきませんって、その一点張り。阿川先生はあんなだから、笑いながら、そうか、そうかって言って終わっちゃってねぇ」
拓哉は思わず、島ふたつ向こう側に見える阿川先生の背中を見る。
もうすぐ六十歳を向かえるというベテランの教師で、社会を教えており、おっとりとした穏やかな先生だが、生徒からの信頼は厚い。 どこか超越したような雰囲気から、生徒達には”仙人”と呼ばれていることも、拓哉は知っていた。
「園長先生も、『一太君は、小学生の時からパン屋になるのが夢でした』とか言ってて、なんか拍子抜けしちゃったっていうか。子供の頃からの夢はいいけど、今、もっとでかいチャンスが目の前にあるのに、それをフイにしちゃうのかってね。なんか、僕、阿川先生には悪いんだけど、ちょっとなんかイライラしちゃったっていうか、それは教師としてどうなんだって思っちゃったんですよね」
「先生、さよなら」
「おう、気をつけて帰れよ」
生徒たちに声をかけながら、教職員出口を出ようとしたところで、誰かが拓哉の肩をぽんと叩いた。
振り返ると、家庭科の穂村先生だった。
「私も帰るところです。駅までごいっしょしましょう」
穂村先生はこの学校に一番長くいる教員で、年齢は四十代後半だ。ふっくらとした体型で、生徒達からはお母さんと呼ばれていたりする。
「南先生、さっき、東条先生から愚痴、聞かされていたでしょ?」
くすくす笑いながら、「先生、声が大きいから、近くにいた私にも部聞こえてました」と穂村先生が言う。
「東条先生、熱心な人だし、本当に鈴木の件は悔しかったみたいですよ」
東条先生の表情を思い出しながら拓哉が言うと、穂村先生は意味深長にふふふっと笑った。
「いいお話ですもんね」
そこで一度、穂村先生はふっとため息のようなものをついた。
「いった君、もっときちんと、自分で先生方に説明できればいいんですけどね」
「え?どういうことですか?」
歩幅が自分より小さい穂村先生にあわせて、ゆっくりと歩いていた拓哉は、思わず足を止めた。穂村先生も、それにあわせて足を止める。
「いった君、入学してすぐ、パン屋になるにはどうしたらいいですか? って、私のところに聞きにきたんです」
驚く拓哉を前に、穂村先生は「家庭科教えてるからって、パン屋さんになる方法まで知ってるっていうのは、さすがにないわよね」と笑った。
そこで穂村先生はゆっくりと歩き出したので、拓哉はあわててそれに続く。
「ずっと夢だったんですって。阿川先生の話だと、柔道は中学の時にちょっとよからぬ子たちに絡まれていて、そこから逃げるために始めたってことだそうだけど、本当は料理やお菓子作り、習いたかったらしいわ。あの子、時々、そういう話をしに、私のところに来ていたの」
鈴木がですか……と、思わず拓哉はつぶやいた。
どちらかといえば巨漢といえなくもない鈴木一太が、この小柄な穂村先生と話したくて、家庭科室にしょっちゅう出入りしていたというのが、そもそも想像がつかない。しかもパンや菓子作りの話とは。
「見かけと違ってとてもデリケートな子だし、私から先に阿川先生にはお話ししていたのだけれどね。特待生の話、実際とても良いお話だし、阿川先生も、いった君本人が考えて選ぶのがいちばん良いって考えだったみたいだけど、いった君、やっぱりパン屋さんになる道を選ぶってことなんでしょうね」
「東条先生はご存知なんですか、その話」と拓哉が尋ねると、穂村先生は「もちろん」と答えた。
「でも、東条先生の立場からみれば、こんな良い話、もったいないって気持ちのほうが、そりゃあ強いのは当たり前でしょう。いった君、柔道もずっとがんばっていたしね。洗武大学にいけば、もしかしたらオリンピック選手にだってなれる可能性もあるでしょ?」
そこで穂村先生がころころと笑った。
拓哉の脳裏には、鈴木一太のもそりとした顔が浮かぶ。
無口でほとんど感情を表にださない彼が、そんな一途な願いを将来に描いていたというのは意外だった。
普通だったら、特待生の話に心動かさない生徒はいないだろう。しかし、鈴木一太は迷うことなく、パン屋になるんだと答えている。東条先生の熱い説得にもいっさい応じずに、巌のような一念で、自分の意志を貫こうとしている。
あの大人しい鈴木一太が、そんな情熱を内に秘めていたのかと拓哉は驚いた。それと同時に、それにまったく気づくことがなかった自分を恥じた。
その時、ふと、赤坂先生と交わした会話が脳裏に浮かぶ。
拓哉はそれを、穂坂先生にかいつまんで話した。
「赤坂先生、面白いわねぇ。化学の先生なのに、言うことはなんだか芸術家みたい」
そこでまた、穂坂先生が笑った。優しい笑い声だ。
「与えてもらうばかりの子供は考えなくていいから、楽なことで終わっちゃうのかもしれないわよね」
え? と思わず、拓哉は穂村先生の顔を見つめた。
「いった君は、やりたいことがなんでも出来る環境にはいないし、出来ることは限られてる。だから、一生懸命考えて、自分が出来る範囲で選択して、そこで出来ることを実直にやってきたんだと思うんですよね、あの子、不器用なくらい真面目だから」
ああ……そうか、そういう事なのか、と拓哉は思った。
「なんか、パンやお菓子の本とか、何冊か持ってるって言ってたけど、実際作る機会はそうなかったらしくて、家庭科室で焼かせてあげたことあるの。でもね、良いバターとか、そういう材料はお金かかるでしょ? 地元のパンの味しか知らないって言うんで、私、銀座に出た時に、有名なパン屋さんのパン、いくつか買ってきて食べさせてあげたことがあるの。びっくりしてたわ、いった君。こんなに味が違うんだって」
拓哉は、自分の胸の内が、熱くなるのを感じた。
自分の知らない鈴木一太がいる。そう思った。
「親がいないいった君は、ひとりで生きていくことを、小さいときから考えていたのかもしれない。その時に、どういうきっかけでそうなったかはわからないけれど、パン屋さんになるって夢を持ったことはとても素晴らしいし、それを実現しようとするのはすごいことでしょう? 私は応援してあげたいわ」
そこで、穂村先生は口をつぐみ、空を見上げた。
担任の阿川先生も、恐らく同じことを考えているのだろうと拓哉は思った。
自分にとって鈴木一太は、教えているクラスの中の生徒のひとりにすぎない。
しかし、阿川先生や東条先生、穂村先生には、大勢の中のひとりではなく、”鈴木一太”というひとりの大事な生徒として存在している。そして鈴木一太も、そういう先生たちを信頼し、頼り、教えを乞うている。
ああ、僕は教師として、まだまだ未熟だな。
拓哉は思わず苦笑いした。
「鈴木のことだから、成功しようとか有名店になるとか、そういうことは全然考えていないでしょうね」
そう言った拓哉に、穂村先生が笑顔を向けた。
「あのね、学校の運動会とかに、お母さんがお弁当にサンドイッチとか作るでしょ? そういうのに普通に使ってもらえる、飽きない味の街のパン屋さんになりたいって言ってたわ」
拓哉は思わず吹き出し、「もうちょっと大きな夢、見てもいいですよね」と言うと、穂村先生がまたあの穏やかな笑みを浮かべた。
「叶う夢には野心はないのよ。たくさんの子供見てきたけど、夢を叶えた子供はみんな、不器用なくらい実直に、時間をかけて自分の夢に向かっていたもの。いった君、そこは誰にも負けないくらい不器用で実直だから、きっとちゃんと自分の夢をかなえるわ」
「そうですね」と答えて、拓哉は思わずうつむく。
ひとりの生徒の将来を、みんなが真剣に考えている。これが教師という仕事なんだなと思った。
「あら、あれ、噂のいった君じゃないかしら?」
穂村先生の言葉に顔をあげると、道のずっと先に、高校二年生にしては幅広のがっしりとした背中が見えた。
道の先で、鈴木一太は大きな背中をゆすりながら、まっすぐに前に向かって歩いていた。