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【小説】あなたの人生に幸多からんことを 第一話 生後二十七分
目的の廃墟は、思っていた以上に山の奥深くにあった。
人が通らなくなった細い道には草が生い茂り、木が覆いかぶさっている所もあったが、存在はうっすらと残っていた。
― さすが、モールスさんの情報は確実だな
教えられた道をたどりながら、春樹は高揚する気持ちを抑えられない。
廃墟ML(メーリングリスト)のメンバーのモールスはこの近所に住む人間で、休日はバイクで近隣の山をまわり廃墟探しをしていて、気軽にMLメンバーに情報を共有してくれる。廃墟MLのメンバー内では、彼が発見したあらたな廃墟を訪れる事がちょっとした流行になっていた。
『錆びた看板のところを右にはいると、行き止まりになる。そこに、うっすら道があるので、そこをまっすぐ進むと目的地に着きます』
情報に書かれていた通り、湿った土を踏みしめながら進んでいくと、半壊した小さな家に行きついた。壁や屋根は苔むしており、枝や枯葉が重なるようにしてのしかかっている。扉や窓はすでにない。 見た目はかなり荒れ果てているが、かつて人が住んでいた形跡らしきものは残されていた。
モールスの情報によれば、数十年前まで人が住んでいたらしい。
『それらしき窯が残っていたので、陶芸か何かをやっていたのかもしれません』
裏に回ると、モールスの言っていた窯らしきものがあった。こちらは原型をとどめてはいない。
木々の葉が繁る鬱蒼とした森の中、葉の隙間からこぼれる太陽の光が廃屋を包む苔の上で踊っている。
春樹は思わずそこにカメラを向けてシャッターを切った。
目の前にあるのは、時の中に埋もれていく別世界だ。その美しさに魅せられて、廃墟巡りを始めた。
息子の趣味を、両親は快く思っていない。
「そんな、誰もいないところで、何かあったらどうするの?」と母親はいつも顔をしかめる。
友達にも、春樹の写真解する者はいなかった。
「まぁ、どこもそんなもんだよ」 MLの仲間はみなそう言う。
大学の写真部でも、廃墟写真ばかり撮る春樹は変わり者扱いで、女性からの受けもよろしくなかった。
しかし、春樹が撮影した写真を見るとみな驚き、無言になる。
廃墟には独特の美があり、そして底知れぬ魅力がある。人が消えた場所で時を経た建物は自然にのみこまれ、朽ちる。そして、自然の一部となっていく。
その過程を、美しさを、写真におさめたい。
そういう気持ちでずっと廃墟を撮り続けてきた。
だが自分も間もなく大学三年生になる。就職の事を考えなければならない。
心のどこかで、写真で身をたてていきたいと願っている。小さい賞ではあったが、撮影した写真が受賞して評価を受けた時、その気持ちは大きくなった。
でも、それで食べていく事ができるのかはわからない。
その道で成功する人間はわずかだ。それはわかっている。MLの中には数人プロのカメラマンもいるが、みな、雑誌社や新聞社勤めだったり、実家の写真館を継いだ人たちで、好きな写真だけで食っていっている人間はいない。
大学卒業後に選んだ道が、恐らく自分のその後の人生を決める事になる。
けれど、今の春樹には、写真以外にやりたい事がなかった。自分の人生なのに、何もかもが中途半端で曖昧だ。
それがどうしようもなく、もどかしい。
シャッターを切る春樹の頭上で、風が梢を抜ける音がした。
撮影している時、自分も自然の一部になったような気がする。誰もいない場所にいるはずなのに、寂しさや恐怖を感じた事はない。むしろ、何かとつながっているような、何かに包まれているような気がしていた。
それを感じる時が、いちばん幸せだった。
あちらこちらを見ながら夢中でシャッターを切っていると、頬にあたる空気が冷たくなった事に気づいた。
『あのあたりは谷間で日が暮れるのが早く、日が差さなくなると夏でもかなり温度が下がります。あっという間に暗くなるので、早めに切り上げて山を降りる事をお勧めします』
モールスのメールに書かれていた事を思い出し、時計を見るとニ時を少し過ぎたあたりだった。
まだ陽はあるが、ここまでくるのにすれ違う車もほとんどなかったし、早めに山を降りるのがいいかもしれない。そう考えて、機材をまとめて、来た道を戻る。
走り出した車が山の中腹にさしかかった時、腹がぐるぐると鳴った。早朝、家で朝食を食べたきりで、その後何も腹にいれていない。
来る途中で買った握り飯が助手席にある。
どこかで休憩して一服しようかと考えながらしばらく走ると、眺望の良い場所に小さなパーキングを見つけた。ベンチがあるだけで他には何もないが、遠くに街並みが見えた。
車を止めた春樹は、後ろの座席においてあったバッグからポットを取り出し、自分で作った簡易ドリップでコーヒーをいれた。
最初から作ったコーヒーをいれればいいじゃないかとみんな言うが、淹れたてが好きな春樹は、わざわざ保温ポットにお湯を持ってくる。
淹れたばかりのコーヒーの香りを楽しみながら車の外にでた春樹は、眼下に広がる景色を眺めた。
― 気持ちいいなぁ。
ベンチに座って、握り飯を食べる。
風にのって、鳥の声が聞こえた。
一息つき、握り飯を食べようとしたその時、かさっと音がした。
ん? と周囲を見渡すが、もちろん春樹しかいない。
気のせいかと思ったその時また、かさっと音がした。 それから「みぃ」という鳴き声が微かに聞こえた。
動物でもいるのか?
耳をすますと、かさかさする音は、崖に沿って設置されている柵の端に置かれたごみ箱から聞こえていた。業者の回収がないのか、ごみ箱には空いた缶や弁当箱が乱雑に積まれている。
春樹がごみ箱に近寄ると、また「みぃ」と鳴き声がした。
― まさか捨て猫?
少しためらわれたが、いちばん上に乗っているファーストフードの紙袋とペットボトルをどけて、ごみ箱をのぞきこんだ。
丸まった新聞紙がある。
何かいる……と思ってさらに顔を近づけたその時、春樹は息を呑んだ。
丸められた新聞紙のあいだから、小さな手が見えた。
持っていたコーヒーを投げ捨て、両手をごみ箱の中につっこみ、丸められた新聞紙を取り出す。 そして、そうっと新聞紙を開いた。
そこにいたのは赤ん坊だった。
生まれたばかりの、目もあいていない男の子だ。身体のところどころに血の塊がついていて、へその緒もそのままだ。閉じた瞼は透けて、糸のように細い血管が見えた。生まれてそのままここに置き去りにされたのだ。
驚き固まる春樹の手の中で、赤ん坊が少しだけ動き、細い細い声で「みぃ」と鳴いた。
生きてる。
我に返った春樹は、赤ん坊を両手にだっとのごとく車に戻った。
「やばい、やばい、やばい、やばい」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
丸まった新聞紙から赤ん坊を取り出す。新聞の硬い紙がやわらかい皮膚を傷つけているのがわかった。
「やばい、やばい、やばい、やばい」
春樹の手に乗った赤ん坊の身体はすでに冷たい。
このままでは死んでしまう。
そう思った瞬間、ざぁっと血の気が引いた。
春樹は、後部座席にあるバッグの中に片手をつっこみ、中からタオルとセーターをひっぱりだした。そして、ボトルにあったお湯をタオルにかけ、赤ん坊の身体を拭き、さすった。
あったまれ、あったまれ、あったまれ。
濡れた身体を拭き、セーターで包みこんでさらにさすると、赤ん坊が春樹の両手の中でふるっと震えた。
「くそっ、くそっ、くっそおおお」
いったん両手を離した春樹は、またバッグに手をつっこみ、ポットを取り出す。
ポケットにいれてあったティッシュを抜いてお湯をひたし、少し間をおいてから、赤ん坊の口にティッシュを持っていく。赤ん坊はそれを小さな口でちゅっと吸い、ちょっとだけ両手を動かして、春樹が持っているティッシュをつかむような動きを見せた。
春樹の目の前で、透き通るような細い小さな指が空を掻いた。
「くっそおおおお」
春樹は、セーターでくるんだ赤ん坊を助手席に置いて、エンジンをかけた。
ここは携帯がつながらない。救急車は呼べない。
いや、仮に呼べたとしてもこんな山奥、救急車を待ってそれから病院に運ぶまでの間に、赤ん坊は死んでしまうだろう。
眼下に見えていた町までいけば、病院があるはずだ。
あせる春樹の隣で、赤ん坊の気配が薄くなっていく。
隣のシートに目をやったその時、セーターにくるまれた赤ん坊がふるっとまた震え、そして動かなくなった。
「馬鹿! 死ぬな!!」
春樹は叫んだ。
「俺が助けてやる!! 絶対助けてやるら!!」
大きなカーブを曲がると、そこからまたなだらかな下り坂が続く。
「死ぬんじゃない!! 死ぬな!! 死んだらだめだ!!!」
春樹の目から涙がこぼれる。
「絶対に俺が助けてやるから!! 助けてやるから死ぬんじゃない! 絶対に死ぬな!」
大声で叫びながら、春樹はアクセルを踏んだ。
町にはいり、開いている店を探したが、日曜日のためか開いている店は見当たらない。 家もまばらな道には、歩いている人もいなかった。
スピードを落とし、人の姿を探した。
すると、道沿いにある大きな家の前で歓談している壮年の男女が見えた。
突然止まった車に視線を向けたふたりに、春樹は叫んだ。
「すみません、赤ん坊が死にそうなんです! どこか病院、ありませんか!」
驚いて固まった女性とは別に、白髪の男がだっと走ってきて車の中を覗き込み、息を呑んだ。
「この先に、小山って内科がある。後ろ乗せろ。案内すっから」
そう言って男が後部座席に乗った。
男の言う通り走っていくと、小山内科という大きな看板が見えた。コンクリート建ての小さな個人病院だが、入口は鍵がかかっていた。
「こっちだ」
白髪の男は垣根の脇を抜けて、その奥にある庭にはいった。
春樹は赤ん坊を抱いて、男のあとを追う。
男が叫んだ。
「先生! 大変だ! 赤ん坊が死にかけとる! 先生っ!!」
がたがたと大きな音がして、奥からジャージを着た老人が現れた。
「先生、お願いします! 助けてください! 助けてください!」
叫ぶ春樹の姿に、医師は裸足で庭にかけおりて、春樹の手の中にある赤ん坊を見て、そして叫んだ。
「かあさん! お湯だ! お湯わかせ!」
赤ん坊が手から離れた瞬間、春樹は崩れるようにそのまま庭にへたりこんだ。
それから、両手で顔を覆い、声をあげて泣き出した。