見出し画像

【小説】あなたの人生に幸多からん事を 第六話 十四歳四ヶ月

「三番、はいります」
 レジのみんなにそう言うと、絵里は私物のはいった小さなトートバッグを持って、そこを離れた。
 三番とは、この書店で使われている特別な番号で、『休憩にはいる』という意味だ。
 その他に、『トイレにいってくる』『昼食に出る』などの用事も、専用の番号でスタッフに伝えることになっている。
 店を出て、ビル従業員専用のエレベーターで六階にあがると、絵里はその横にある自動販売機でコーヒーを買う。
 たいしておいしいわけでもないが、他に選択肢はない。
 店から少し歩いたところにスターバックスがあるが、仕送りとバイトでなんとか生活しているしがない大学生の身では、休憩のたびにスターバックスでコーヒーを買うような贅沢をしてはいられない。
 六階には書店のオフィスがあり、その奥に、書店従業員専用の休憩室がある。
 その部屋の扉を開けると、絵里は先にいる人達に「お疲れ様です」と声をかけ、古いソファに腰をおろした。
 絵里がバイトする書店は、都心部から少し遠い地方都市の駅前にあるビルにはいっている。本店は渋谷にあり、都内だけでも十数店舗がある大型書店で、絵里の店も、ビルのワンフロアが店舗になっている地元では一番大きな書店だ。
 コーヒーを一口飲んだ絵里は、トートバッグから早速本を取り出して開いた。
 今、一番好きな作家の文庫本で、昨日出たばかりだ。
 大学の友人のほとんどは居酒屋やカフェなどでバイトをしていたが、絵里は迷うことなく書店でのバイトを選んだ。
 好きな本を身近に仕事できることが何よりうれしかったし、本によっては少しだが、割引で購入ができる。
 ひとり暮らしのアパートから徒歩で通えるこの書店でバイトできるのは、絵里には何よりありがたかった。
 本を広げて数ページ読み進んだところで、絵里はなにやら耳にはいってくる騒々しい音に思わず頭をあげた。
 いつもはみな、静かにすごす休憩室に何やら叱責する声が響き渡っている。
 おもむろに顔をあげた絵里に、横のソファに座っていた同じバイトの美沙が「隣の会議室」と小声で言った。
 休憩室の隣には、打ち合わせや来客につかう小さな会議室がある。その間にあるのは、みんながベニヤ板と呼んでいる薄い壁だ。
 薄すぎて、会議室で交わされる会話は休憩室にも漏れ聞こえるのが常だが、今日のそれは、いつものものとは違っていた。
「自分のやったこと、わかってるよね?」
 すぐに、コミック売り場の責任者、山岡の声だとわかった。抑えてはいるが、明らかに怒りの声だ。
「なんかあったの?」
 思わず尋ねた絵里に、美沙が声をさらに落として、「万引き」と答える。
 思わず壁の方を見た絵里の耳に、「万引きは立派な犯罪だからね」という山岡の厳しい声が響く。
 そこで美沙がオレンジジュースのペットボトルを片手に立ち上がり、絵里の隣に腰をおろし、小声で「常習犯のグループいたの、絵里ちゃんも知ってたよね?」と言った。
 思わずうなずいた絵里だが、コミックの売り場は少し離れたところにあるので、常習犯だといわれるグループを直接見たことがあるわけではない。
 よく店に来る中学生五人が万引きの常習犯で、朝礼で「気をつけてください」とスタッフに連絡事項として告知されたが、その範囲でしか知らない。
 同じバイト仲間でコミック売り場担当の男子が、「あいつら、マジ性質悪いんだぁ。仲間内で連携とっててさぁ」と言っていたことがあるが、実際、彼らの万引きにあった損害はかなりの金額になると聞いていた。
「何? 山岡さん、ついにつかまえたの?」
 小声で尋ねた絵里に、美沙が首を横に振った。
「それがさぁ、つかまえたの、別の子」
「何それ」
「絵里ちゃん、見たことない? よく、料理本のところで立ち読みしていた、ちょっと小太りの男の子」
 「ちょっと昭和っぽい感じの子?」と絵里が言うと、美沙はちょっと笑ってうなづいた。
「なんかさぁ、あの悪い子たちに脅されて、無理やりやらされたらしいよ」
 ああ……と絵里は思わずため息をもらす。
 たまに見かける少年の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
 もっそりとした風体で、制服のまま、背中をさらに丸めるようにしながら、いつも料理本の書棚のところにいる中学生くらいの男の子だ。
 一度、その棚の担当の岡田に、「よく立ち読みしてる子、いますよね」と言ってみたことがある。
 岡田は化粧っ気のない、眼鏡の似合う四十代の女性で、書店ではベテランのひとりだが、いつもは厳しい彼女がその時はやわらかな表情で、「ああ、あの子ね」と言ったのを絵里は覚えていた。
「料理関係の本って何気に値段、高いからね。あそこでいろいろ見て、その中でじっくり選んだらしい本をたまに買ってくよ、あの子」
「料理なんかするんですかね、あの子。そんな感じには見えないですけど」
 思わずつぶやいた絵里に、「料理よりもっと意外よ、あの子が買っていくのって、お菓子とかパンの本だもん」と岡田が笑いながら言った。
 その子が漫画の本を万引きして、今、隣の部屋にいる。
 絵里は、なにやらいたたまれない気持ちになった。
 コミック売り場では、あまりの万引きの量にその都度対策を練っていたが、常に後手後手にまわっていると話は聞いていた。
 常習犯の子供たちは、本が読みたいわけじゃない。ただの愉快犯だ。
 彼らの手口は巧妙で、売り場のスタッフとの見えない戦いがずっと続いているのは、書店で働く者みんなが知っている。
 現場をとりおさえたら、即刻警察に連絡する。
 それが、書店で決められた規則だったし、その中でも山岡は常にシビアにそれを行ってきた。
「さっきまでコミック売り場の多田ちゃんが休憩でいたんだけど、あの子、棒立ちで、わざわざスタッフがいる目の前で万引きしようとしたんだって」
 驚く絵里に、美沙は旬なネタを語る面白さに酔ったように語りだした。
「いつものグループの子たち、ばらばらになって遠巻きに見ていたらしくて、スタッフ全員で警戒していたら、あの子、よりによって一番大きなサイズのイラスト集、レジのみんなに見えるように堂々と自分のリュックにいれようとしたんで、みんなでびっくりして、速攻取り押さえになったんだってよ」
「他の子たちは?」
「あっという間にどっかいっちゃったって」
 そこで美沙が時計を見て、「あ、時間だ、いくね」と言って、そのまま休憩室を出て行った。
 残された絵里はソファに座ったまま、声がしていた方の壁を見つめた。
 わざとつかまったんだ。
 そう思った。
 いじめ、という言葉が、絵里の脳裏にうかぶ。
 少年が誰かといっしょにいるのを、見たことはない。いつもひとりで書店に来て、本を見ていた。
 あの世代の少年が料理本に興味を持つこと事態が珍しいだろうことを考えれば、同行する子がいないのもわかる気もする。
 だが、絵里が感じていたのは、少年の背中にある、寂しさのようなものだった。 リュックを床に置き、一心不乱に本を見る少年の姿は、それを見る絵里の心に、いつも小さな石を投げ込んできた。
 そっとしておいてあげたい。
 少年の後姿を見るたびに、絵里はそう思った。
 その時、山岡の大きな声が、壁の向こうから響いてきた。
「自分でやろうとしてやったことじゃないだろう?」 
 はっとした絵里の耳に、さらに山岡の声が響く。
「あんなやり方、捕まえてくださいって言ってるのと同じなのは、馬鹿でもわかるよ。君、あいつらに脅されてやったんだろう?」
 しかし、少年の声はまったく聞こえてこない。しばらくの間、沈黙が続いた。
「……すみませんでした」
 ぼそっと搾り出すような少年の声が聞こえて、絵里は思わず身体を固める。
 山岡は、もう保護者に連絡をいれたのだろうか。 いつもなら、そろそろ警察が来る頃だ。
「セントメリーには、まだ連絡はいれてないから」
 え! セントメリーの子だったの?
 思わず絵里は、声のほうを見た。
 セントメリーは、駅から歩いて十分ほどのところにある、この町にだいぶ以前からある養護施設だ。
 絵里の住んでいるアパートとは逆の方向にあるので、実際に見たことはないが、そういう施設があるというのは、この付近に住む者なら誰もが知っている。
 ああ、だから、高い料理の本、なかなか買えずにいたんだ。
 絵里はそう思ったが、それと同時に、彼がいつも纏っていた寂しい空気がなんだったのか、わかったような気がした。
「君さ、なんで、あんな奴らと関わってるの?」
 不貞腐れたような山岡の声が聞こえた。
「悪いけど、ここの書店の人間なら、君がよく料理の本、立ち読みしていたの知ってる。あの棚の担当、岡田っていうんだけど、君が買っていきそうな本、見つけては仕入れてたんだよね。まぁ、君が知る必要もない事なんだろうけどさ」
 そうだったの!
 思わず声をあげそうになった絵里は、思わず両手で口をふさいだ。
「君がやったことは犯罪で、それだけでも許しがたいわけだけど、君はさ、その岡田の気持ちも裏切ったんだよ。知らないから関係ないっていいたいかもしれないけど、そうじゃない。知らなかったら何やってもいいって事じゃない。君が知らないところでも、君のことを見てる人、知ってる人がたくさんいるんだよ。それがこの世界なの」
 いつもとは違う、山岡の諭すような声が響く。
「君は、この書店の人達から万引きした子だって、これからずっと見られる。そんなところで、君はもう好きな料理の本、見ることも買うこともできなくなった。どうするの? これから君は、あんなに好きだった料理の本、どこで買うの? この付近で書店はうちしかないよね」
 かすれたような、嗚咽が聞こえてきた。
 少年の泣き声だ。
「君に万引きやらせた子たちは、常習犯だ。恐らくここだけじゃなくて、あっちこっちで悪さしてる。そういう奴らを、友達とかにすんなよ。同じ学校だからとか、同じクラスだからとかって、それだけであいつらに自分を思うようにさせるなよ。脅されたにしても、そんな奴らに言われたから万引きしたとか、人のことでも情けないよ」
 吐き出すように山岡が言った言葉に、少年の細い嗚咽が重なる。
 山岡さん、怒ってる。すごくすごく怒ってるんだ。
 絵里はそう思った。
 その怒りは、万引き対する怒りではない。あの、寂しい背中をした少年への怒りだ。
 まっとうな大人が、悪さをした子供に背筋を正せ、馬鹿なことをしやがって! と怒っている。
 山岡が沈黙した後、少年の嗚咽だけが響く。
 サイドテーブルに置いたコーヒーはすっかり冷めている。絵里は、読もうとしていた本を膝の上においたまま、身を固めて耳を澄ました。
「警察にはまだ連絡していない」
 山岡の声がはっきりと聞こえた。
「あんな、みんなの目の前で本をリュックにいれるとか、冗談としか思えないようなやり方、警察に届けようもないよ。でも、だからといって、何もなかったってするつもりはない。次やったら、即刻突き出すからな」
 今、隣の部屋にいる山岡は、絵里が知らなかった山岡だった。
 どちらかといえば、うっとうしい親父という感じの山岡は、バイト仲間からもあまり好かれていない。少しでも時間に遅れれば叱責が飛ぶし、仕事中、うっかりおしゃべりに盛り上がると、即刻注意される。
 中肉中背のどこにでもいるような中年男性で、四十歳超えても未婚のままということで、口の悪いバイト仲間たちからは、少し馬鹿にされているところもあった。絵里自身、直接関わらないで済むのなら関わらずにいたいと思っていたクチだ。
 しかし今、隣の部屋で、中学生に叱り飛ばしているのは、そんな山岡じゃない。
 何がしかの事情を抱えているであろう少年が、書店に通いつめて一心不乱に見ていたのを、何も言わずに見守っていた大人。
 くだらない、卑劣な輩と関わって馬鹿なことをしでかした少年を叱る大人。
 そういう少年の行動を心から怒り、哀しむ大人。
 それは優しさなんだと、絵里は思った。 本当の、ちゃんとした大人の優しさなんだと思った。
 ばんっと、何かを机に叩きつける音がした。
「ここに名前と住所を書け」
 少年の嗚咽が一瞬止まる。
「あと、セントメリーの先生の名前と、電話番号も書け。今回のことは、書類に残すし、セントメリーの先生にもきちんと報告する。警察にも万引きがあったということは連絡をする。それが規則だからな。君も、自分がやったことへの責任はとらなきゃいけない。脅されたとか、言い訳にはならない。やったのは君なんだ」
「…はい」と小さな声が聞こえて、そして静けさがおとずれた。
 時計を見ると、休憩時間の三十分が過ぎようとしていた。
「あ、もう行かなきゃ」
 コーヒーのはいった紙コップを片手に、絵里は立ち上がった。
 あの子、これからどうするんだろう。もう書店には来ないかもしれない。
 エレベーターで売り場まで下りる中、ふと絵里はそう思った。
 あんなに真剣に見ていた料理の本、今度からどこで買うんだろう。
 そう思いながら、ふと口にしたコーヒーは、すっかり冷たくなっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?