【小説】あなたの人生に幸多からんことを 第三話 二歳三か月
ヨガのクラスが終わった後、時間を取ってほしいと真紀子からLineに連絡がきたのは、木曜日の夜だった。
ヨガスタジオで親しくなった真紀子は、夫の転勤で、一か月後に日本を離れてはタイで暮らすことになっている。
初めての外国暮らしとあって、悩みや不安も尽きないらしく、以前にも増して真紀子からの誘いは多くなったが、明るく前向きな彼女と話すことは、香にとっても楽しい時間だった。
レッスンが終わって連れ立ってスタジオを出ると、真紀子の表情が暗くなった
香はその様子に何かただならぬものを感じたが、何も言わずに隣を歩く真紀子の緊張した面持ちに、自分から話しかけるのを躊躇した。
お気に入りのいつものカフェにはいると、真紀子はいちばん奥の席に場所を取った。誰にも話しを聞かれたくない時に座る場所だ。
「何かあった?」
そう尋ねた香に、真紀子は真剣なまなざしを向けた。
「香ちゃん、覚えてる? 去年、私たちが養子とろうとした話」
唐突な質問に驚いた香だったが、「ああ……あったね、男の子引き取るかもしれないって話だよね」と答える。
真紀子夫妻には子供がいない。三十代半ばで不妊治療を始めたが、妊娠にはいたらなかった。想像を超えた忍耐と痛み、ストレスが伴う長い不妊治療に疲れ果てた当時の真紀子の事は覚えている。
その後、妊娠をあきらめた真紀子と夫は、養子を迎えることを考えたのだった。
「この間、連絡がきたの。あの時の男の子、引き取る気持ちはまだありますかって」
「……え?」
一瞬、香は真紀子の言葉が理解できず、アイスコーヒーのストローから口を離したまま、ぽかんとした。
「連絡って、どこから?」と尋ねると、真希子が目を伏せて、「養子斡旋のエージェントから」と吐き出すように真紀子が言った。
「え? ……だって、その男の子、別のご夫婦に引き取られたんでしょ? 真紀ちゃん、そう言ってたよね?」
真紀子がうなずく。
その目には、明らかな怒りが見えた。
養子縁組の候補にあがっていた男の子が、別の夫婦のところに引き取られることになったと、真紀子がヨガスタジオで親しい人々に明かしたのは、夜のヨガクラスが終わった後だった。
クラスに参加している人は少数で、顔馴染みだった。だから、不妊治療で体調が悪かった頃の真紀子の事も知っていたし、養子縁組が進んでいるという報告を喜びいっぱいにしていた姿も見ていた。だから、彼女の失望がどれほどのものなのかもすぐに理解した。
みんなが口々になぐさめの言葉をかける中、灯りを落としたスタジオで、窓から差し込むネオンのライトに照らされた真紀子の悲痛な表情は今でも覚えている。
真紀子が引き取り先にならなかったのは、年齢が高いという理由だった。
その時真紀子は三十九歳、夫は四十一歳だった。
「経済的に安定している年齢だろうに、なぜだめなの?」と思わず声をあげたひとりに、真紀子が頬に涙の跡を光らせながら、「養子縁組は、四十歳が限度年齢なんですって。子供の親に適した年齢を考えるかららしいけれど……夫の年齢はそれを乞えているし、私も来月四十になるから」と細い声で言った。
子供を引き取ったのは三十代前半の夫婦だった。
「引き取ったご夫婦に何かあったってこと?」
その問いに、真紀子が唇をかみ締めた。
「赤ちゃんができたんだって」
「……なんですって?」
思わず聞き返した香に、真紀子は固い声で言った。
「子供を引き取った後に、妊娠したんですって。それが双子で、三人育てるのは無理だからって、引き取った子、戻したんだそうよ」
香は言葉を失った。
一度引き取り、短い間でも自分の子供として育てていた子を、そんなふうにして”返却”するなんて信じられなかった。
顔色を変えた香に、真紀子が「私も聞いた時、言葉が出なかった」と小さな声で言った。
「五ヶ月で引き取って、二歳まで育てた子なのよ。それをそうやって手放すって、何なの? 物じゃないのよ。それまで手をかけて育てていた子供を、そんなふうにできるって、どういう人間なの?」
三人の子供を育てるのは、経済的にも状況的にも大変なのは理解できる。
だが、引き取った以上、その子も彼らの子供なんじゃないのか?
他人には言えないなんらかの事情があったのかもしれない。しかしそれでも、一度は自分の子となった子供を、”返却”するなんて、香は理解できなかった。
「それでどうするの? 真樹ちゃん、その子、引き取るの?」
その問いに、真紀子の顔が強張った。 そして、さらに険しい表情を浮かべた。。
「……引き取りたい」
「うん」と答えた香を前に、真紀子の声が震える。
「……引き取りたいって、夫も言ってる。でも、無理なの。できないの」
真紀子の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「子供を引き取るにはトライアルがあるの。顔合わせして、短期的に何度かいっしょに生活して、お互いに慣れて、エージェントのほうで大丈夫って確認ができて、初めて養子にできるの。でも、私たちにはその時間がない」
掠れた声でそう言うと、真紀子はこぼれる涙を拭うこともせずに、香に向かって吐き出すように言った。
「話が来て、すぐに主人も会社に相談したの。でも、今の時点でタイの赴任を取り消すのは無理だった。子供をあきらめて、夫婦だけで生きていこうってやっと決意して、そこでタイの赴任の話がきたのを私たち、心機一転、タイで気持ちを切り替えようって言ってたの。なのになんでそんな時に知らせが来るの! なんで今なの! どうしてっ!」
香は言葉を失ったまま、真紀子を見つめた。
タイミングが悪い。
そう言ってしまえれば簡単かもしれない。
しかし、そんな安易な言葉で納得できるような話ではなかった。
真紀子夫婦は心から願った子供を得る機会を失い、何がしかの理由で孤児となったその子供は、親となってくれる人たちを失ったのだ。
「私、一太君のお母さんになりたかった。一太君のおかあさんになりたかったの」
両手を顔を覆って掠れた声で言った真紀子に、香は「その子、一太君というの?」と小さな声で尋ねた。
真紀子は両手で顔を覆ったまま、こくんとうなずく。
「一太君、捨て子だったの。やっと引き取られたのに、また捨てられたことになるんだよ。いくら赤ちゃんでも、自分に何が起きたのか、絶対わかる。今までお母さんだと思っていた人が、『いらない』って言って簡単に自分を見捨てたこと、わかると思う。なんでそんなことをする人が親になれるの? なんで、一太君のお母さんになりたいって思ってる私は、一太君のお母さんになれないの?」
泣きじゃくる真紀子の前で、香は一太と呼ばれる赤ん坊のことを思った。
この人たちのところに引き取られたらきっと、普通の家庭に生まれた普通の子供のように愛されて生きていくことができただろう。
両親に甘え、反抗期には親を困らせ、羽目をはずして叱られ、成長していくことができただろう。
でもそれは、かなわない。
香は震えながら泣いている真紀子を見ながら思った。
一太君。
今ここで、あなたのために泣いている人がいるよ。
まだ会ったこともないあなたの成長を見たいと思っている人がいるよ。
あなたのお母さんになりたいと、心から願ってかなわなかった人が、ここにいるんだよ。
香は、目の前で顔を覆って泣いている真紀子を見つめた。
「真紀ちゃん」
真紀子が顔をあげる。
「簡単に納得できることじゃないのはわかってる。でも、仕方ない、どうしようもないことだって、あきらめるしかないと思う」
涙で濡れた赤い目で、真紀子は香を見つめた。
「でもね、真紀ちゃん。出来ることはあるよ。神様にお祈りするの。一生懸命祈るの。本当のお母さんの気持ちで祈るんだよ。一太君が元気で健やかに成長しますようにって。がんばって勉強しますように。怪我や事故にあいませんように。幸せでありますようにって。心から祈るの。ずっと祈り続けるの。本当のお母さんのように。本当のお母さんに負けないくらいに」
香は真紀子の顔を正面から見据え、そして強い声で言った。
「一太君にとっては、そんなこと、全然知らないで終わることかもしれないけど。でもね。世界のどこかで、一太君のことを想っている人がひとりでもいるってこと、一太君の幸せを願っている人がいるってことが、とても大事だと思うの。一太君には今までそういう人はいなかったかもしれないけど、今は違う。真紀ちゃんがそういう人になるでしょ? 一太君の幸せを願う人になるでしょ?」
真紀子の頬を、涙が幾筋もつたう。
ゆっくりと真紀子は顔を伏せた。
「私、そういうの、信じてるんだ。くだらないって言う人もいると思うけど、誰かの幸せを願う気持ちって、絶対にその人に届くって思ってる。目には見えないけれど、ちゃんと伝わって、その人の力になると思ってるんだ」
香の前で、真紀子は再び、両手で顔を覆って静かに泣き出した。
そして、小さくうなずいた。
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