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小説 あなたの人生に幸多からん事を 最終話 二十二歳 あの日
改札から出てきた父は、美和子の姿を見つけると足早に近づき、「なんだ、お前、大丈夫か」と言った。
「大丈夫だよ」
そう答えたが、父は心配そうな表情で美和子の顔をのぞきこむ。
「お母さんからメールきて、びっくりしたぞ。怪我はないのか?」
「うん、ちょっと膝打ったけど、痣になったくらいだから、大丈夫」
しょっていたリュックに父が手をかけたので、そのままそれを渡すと、父は背中に美和子のリュックをしょった。
「なんだ、これ、けっこう重いな」と驚く父に、「そりゃそうだよ、教科書とか全部はいってるんだから」と美和子は答える。
「タクシーで帰るか?」そう言った父に、「そんなに大げさにしなくていいよ」と美和子は笑った。「そうか?」と父は応じたが、納得はしていないようだ。
「怪我したわけじゃないし、お父さんが来てくれたし、せっかくだからふたりで歩いて帰るのもいいかなって」
美和子の言葉に、父は照れたような顔をして微笑む。
最近、仕事が忙しくて毎日帰りが遅かった父が、わざわざ仕事を切り上げて駅で待っていてくれた。それがうれしかった。怖い想いはしたけれど、お父さんのこんな顔、見れたのはちょっとよかったかな……と思った。
「駅で突き飛ばされたって聞いたけど、何だったんだ?」
「うーん……私も突然で、びっくりしすぎてよく覚えていないんだけどね」
学校を終えて駅のホームに上がる階段で、突然後ろで「どけっ!」と男が怒鳴った。と、そのまま力まかせに突き飛ばされた。身体が一瞬宙に浮いたような感じになった事だけは覚えているが、あとはよくわからない。
「なんだ、それは」父の顔がにわかに厳しくなる。
「そばにいた男の人が咄嗟に腕、掴んでくれてね。それで階段から落ちずに済んだの」
実際は、もうちょっと大変な状況だった。
突き飛ばされた瞬間、勢いで肩にかけていたリュックが吹っ飛んだ。そのままバランスを崩した美和子の耳に女の人の悲鳴が聞こえた。身体がふわりと宙に浮き、あ、私、落ちる……と思ったその時、がしりと腕を掴まれた。
我に返った時、腕を掴んでくれた男の人に、がくがく震えながらしがみついていた。
それを父に話すのは躊躇われた。もっと心配かけてしまう。
「突き飛ばした男は捕まったのか?」
「ううん、そのまま止まってた電車に乗って行っちゃったって」
突き飛ばした相手がどんな男だったか、美和子は覚えていない。周囲にいた人達の話によれば、四十代くらいの背広を着た男だったという。あっと言う間に出来事だった。
「助けてくれた人は? ちゃんと礼、言ったか?」
「……うーん」
「なんだ、お礼言わなかったのか?」
言わなかったわけじゃない。言えなかったのだ。
咄嗟に腕を掴んで助けてくれたのは若い男性だった。がっしりとした大きな身体をしていた。
驚きと恐怖で呆然としていた美和子に、その人は優しい声で「大丈夫?」と尋ねた。返事をしようとしたが、歯の根が合わず、うまく返事ができなかった。そのままその場にへたりこんでしまった。
その時、階段の上にいた誰かが大きな声でその人を呼んだ。
「あ、電車きちゃった。俺、行くね」
そう言い残して、その人はあっという間に階段を駆けあがり、電車に乗って行ってしまった、
「なんだ、だめじゃないか。お父さんとお母さんでお礼に行くべきなのに。名前も聞かなかったのか」
「……そんな余裕なかったんだもん」
そばにいた背広のビジネスマンたちが立たせてくれて、駅員を呼んでくれた。ホームの下に落ちていたリュックは、茶髪の女の子たちが拾って持ってきてくれた。
怪我はしなかったが、しばらくショックで動けなかった。駅員室に座り、温かいお茶をもらってしばし、やっと落ち着いた。やってきた警察官にも話しをした。
「怪我がなくて本当によかった」とみんなから言われた。
あの一瞬、あの人が腕を掴んでくれなかったら、突き飛ばされた勢いでそのまま階段を落ちていただろう。階段の下に落ちて中身が散らばったリュックを見た時はすぅっと血の気が引いた。
掴まれた部分にはまだその感触が残っている。力強く大きく、暖かな手だった。
「いった、って呼ばれてた。いった、電車きたぞって呼ばれてたから」
「それが名前か?」
「うーん……たぶん……あ、あとなんかいい匂いしたよ。ほんわりパン屋さんの匂い」
「それだけじゃ何もわかんないよ」呆れた様子で父が言った。
顔も見ていない。覚えているのは、階段をかけあがっていく大きな小山のような背中だけだ。
私だってちゃんとお礼、言いたかったよ。
思わず心の中でつぶやいた。落ちそうになった瞬間打って紫色になった膝がずきずきと痛んだ。
その時父が声をあげた。
「あ、あの角のケーキ屋、ちょっと寄っていきたいんだ」
いきなりケーキ屋? と思って、美和子はすぐに思い出した。
「あ、そっか、今日ってぽーちゃんの日だ!」
大声を出した美和子に、父が笑顔を見せた。
「ほんとは、お母さんの好きな丸の内のケーキ屋で買うつもりだったんだけど、メールもらって慌てて帰ってきたから買ってこれなくてさ」
「いいよぉ、角のケーキ屋さんもおいしいもん」美和子が答える。
ふたりはそのまま、赤い扉の小さなケーキ屋にはいり、ケーキを選んだ。
ぽーちゃんの日は毎年父がケーキを買ってくる日だ。幼い頃は、ただケーキが食べられる特別な日だとしか思っていなかったが、父からその理由を聞いてからは、美和子にとっても特別な日になった。
「お父さん、このいちごののったホールケーキにしようよ」
「自分の好みで選んでるだろ?」
父が笑う。
ケーキを片手に店を出ると、父がつぶやくように言った。
「あの子もきっと立派になっただろうなぁ」
「今いくつくらい?」
「二十一歳」
月明りにほんのり照らされる小道を歩きながら、父がふとうつむいた。
「助けてくれた医者に電話したり、病院に行ったりもしたんだ。でもあの時はまだお父さんも学生だったから、元気にしていますよって言われて安心しちゃってさ。まぁ、それ以上の事もできないしって思ってたんだけど、お前が産まれてから、なんかやたら考えるようになってさ。今、どうしてるかなぁって」、
「ぽーちゃんって名前しか知らないんでしょ?」
「まぁ、それも看護師さんたちがつけたあだ名みたいなものだったからな。探してみようかとも思った事もあったけど、そんな事して逆に迷惑になったら申し訳ないし……元気でいてくれたらいいなって、それだけだ」
「私にとっては、お父さんがケーキ買ってきてくれる日って感じだけどね」
大学生だった父が、山で赤ん坊を拾ったという話を聞いた時、美和子はまだ小学生だった。
私のお兄ちゃん? と尋ねて父を苦笑いさせたが、今も、心のどこかでそんな気持ちが小さく残っている。
いつだったか、買ってきたケーキを見ながら、父が母と自分に、「元気に大人になって、幸せに生きていてくれたらいいなぁ」と言ったのを思い出す。
自分にとっては、ダサい、冴えない、どこにでもいる普通のおっさんな父が、その時は別の人のように見えた。
自分が命を救った子供の幸せを願う父を、大きく、誇らしく感じた。
「きっと、元気でいるよ。もしかしたら、どこかですれ違ったりとかしてる中に、ぽーちゃん、いるかもしれないよ」
美和子が言うと、父が「そうかな、そうだといいな」と小声で言った。
美和子は、自分より頭ひとつ高いところにある父の顔を見ながら、大きな声で答えた。
「絶対元気だよ。だって、お父さんがぽーちゃんの幸せ、こんなに祈ってるんだもん。きっと幸せに、元気にすごしているよ」
父が美和子を見て目を細めた。そして笑みを浮かべて言った。
「そうだな」
終