【小説】あなたの人生に幸多からん事を 第五話 八歳五か月
「土曜日、健人の友達、うちに呼んだんだけど」
味噌汁のはいった鍋に火をかけながら、綾は隣の居間でテレビをつけた夫の隼人に言った。
「いった君?」
隼人の問いに、綾が「うん、そう」と答えると、「健人、大喜びしてただろ? あいつ、いった君のこと大好きだから」と言いながら、隼人が新聞を広げる音がした。
息子の健人は小学校三年生になる。 内気なうえに少し吃音があり、本人がそれを気にして、クラスの子供たちとなかなか馴染めずにいたが、三年生になって友達が出来た。
学校から帰ると、健人は毎日その友達 いった君の話をする。学校でも帰り道も、いつもいっしょにいるらしい。
そのいった君がセントメリー養護院の子供だと知った時、綾は「ああ……」と妙に納得した。
都心部から少し離れているこの地域も、ここ数年の宅地開発で一戸建てが増えて、都心から移ってきた人が増えた。
郊外といっても、一戸建てを購入できるニューファミリーは比較的ゆとりのある家庭が多く、ほとんどは子供のいる。
一時、生徒数が減っていた地元の学校も、ここ数年で生徒が増えていた。
新しく移住してきた家庭の子供たちと、もとからここで生まれ育った子供たちとの間には、子供でもわかる違いがあった。
その背景には生活環境や収入などの違いがあり、ひいては親の考え方や価値観、育て方に繋がっている。
もとからのこの地域に住む子供たちは、祖父母と暮らす者も多いし、近親の多くが地元の学校を出ている者ばかりだ。古い住民には老人も多く、地元の商店や馴染みの古いスーパーマーケットで買い物をするが、新しく移ってきた人々は、少し遠くにある外国資本の大型スーパーマーケットに週末車で出かける。
新しく越してきた家庭の子供のほとんどは、中学進学も都心の私立学校を考えている。
この地域には、昔から親のいない子供、あるいは親が育てられない子供を預かる施設がある。地元に長く暮らす人間にとっては、そこにいる子供たちが小学校、中学校に通うことは当たり前の事だが、新しく移って来た人々の中にはそれを快ろ良く思わない親もいた。
学校の父母会で何かの話し合いになると必ず起こる衝突は、たいていその部分に対する考え方の違いにある。はっきりとは言わないが、セントメリー養護院の子供たちと自分の子供が親しくなることを嫌がる親もいて、それは少なからず、子供たちにも影響を及ぼしていた。
健人の学年にはセントメリーで生活する子供がふたりいて、そのうちのひとりがそのいった君だった。
指導力のある担任教師のおかげか、クラス内にいじめが起こることはなかったが、いった君がクラスの一部の子供たちと馴染めずにいたことは想像に難くない。
吃音のために、やはり他の子に馴染めなずにる健人にとって、いった君は特別な存在になったに違いないと綾は思っていた。
綾はもともと四国の出身で、東京の大学を卒業した後そのまま就職し、そして隼人と結婚した。
ここに来たのは隼人の転属のためで、転属先の部門のある支社が都心から少し離れた場所にあり、それまで住んでいた都内のマンションより近いという理由で、この社宅に移ることになった。
三階建ての社宅は3LDKで、それまで住んでいたマンションよりも広く、しかも家賃が破格に安いが、その分あちらこちら老朽化している。
住み始めてまだ1年半ほどにしかならない綾たちは、地元の人からみれば ”新しくやってきた人たち”ではあるが、古い社宅に住み、つましく生活している綾たちは、新築戸建てのエリアに住む人々との接点はない。
東京の生活は楽しく刺激的だったがその分、目まぐるしく喧騒にあふれていた。社宅に移ってそこから見る景色にほっとした自分に気づいた綾は、自分がいかに都会の生活に疲れていたか気がついた。
早くに父親を亡くした隼人は、働きながら彼と弟を育てた母親の姿を見て成長している。
その苦労を知っているからか、隼人は考えも生活も堅実そのもので、他人の生活や贅沢をうらやむようなこともなく、実直に自分たちの生活を考えている。 古いが、前よりも広くなった家に、隼人は素直に喜んだ。
そして先月、綾の妊娠がわかった。
綾と隼人、そして健人の生活は、穏やかに平和に静かに、そして幸せに続いていた。
「こんにちは」
小さな声が玄関から聞こえてきたが、その子は中にはいってこなかった。
「ど、ど、どうしたの? いった君、は、はいんなよ」
健人の声に返事はなく、はいってくる様子もない。
どうしたのかと思って綾が台所から玄関をのぞくと、そこにはずんぐりとした子供がひとり、下を向いたまま立っていた。
「いった君?」
声をかけた綾を、子供は、はじかれたように見上げた。
初めて来た家で緊張しているのか、その目には怯えた様子が見える。
綾はにっこりと微笑み、「いらっしゃい。よくきたね」と声をかけると、いったは下をむいてから、こくんとうなずいた。
そして、いったはもっそりと靴を脱ぐと、それを玄関で揃えた。
「いった君、えらいね、ちゃんとお靴そろえるんだね」
そう言うと、いったはちらりと綾を見て、それからまた下を向く。
いがぐり頭にずんぐりとした体型で、少し口をとがらせて下を向いたいったの、ふーふーという荒い息だけが綾の耳に聞こえた。
「い、いった君、こっち! げ、ゲームしよう! げ、げ、ゲーム!」
走ってきた健人が、いったの腕を掴んでそのまま居間に連れて行く。
なるほど、健人と仲良くなるわけだなぁ。
思わず綾は笑いをかみ殺した。
人見知りで不器用そうな子供だ。けれど、健人と仲良くなるくらいだから、穏やかで真面目な性格の子なのだろう。
ひとりっこで自由きままな健人に対して、恐らくあの子は、大勢の中で生活している分、我慢強いところもあるに違いない。
居間からは、健人のはしゃぐ声しか聞こえてこない。
無口な子なんだなと思いながら、綾はオーブンの火を見た。
オーブンの中で、パンが形よくふくらんでいる。
綾はそれを確認してから、サラダの準備をしようと冷蔵庫を開けた時、居間の扉のところにいったが立って、こちらを見ているのに気がついた。
「なぁに? いった君」
声をかけた綾に、いったがおどおどと視線をはずした。
「おばちゃん、お昼ご飯作ってるの。出来たら声かけるから、ゲームして待っててね」
綾がそう言って、もう一度冷蔵庫を開けようとした時、いったが何かぼそりと言った。
「え?」と振り返った綾に、いったが下を向いたまま、「におい」と小さく言う。
「におい?」
綾の言葉に、いったがうなずく。
「これ、パン、焼いてるにおい?」
ああ……と、綾は破顔した。
「いった君、パン焼いてるの見るの、初めて?」
いったの前に立って尋ねた綾をいったは見上げて、こくんとうなずいた。
「そっかぁ。いった君、パン焼いてるの、見たことなかったんだ」
「こっちにおいで」と言って、綾はいったをオーブンのところまで連れて行く。
「これね、熱いから触らないで。ここでパンを焼くんだよ。おばちゃん、パン焼くの好きなの。健人も、おばちゃんの作ったパン、大好きなんだ。いった君も好きになってくれるとうれしいな」
綾の横で、いったは真剣な表情でオーブンの中を見ている。
そこへ、健人が走ってきて、いったの腕を掴んで大声で叫んだ。
「い、い、いった君、ゲーム!」
引きづるようにしていったを居間に連れて行く健人を見ながら、綾はゆっくりと立ち上がった。
狭い社宅の台所に、パンを焼く甘やかな香りが満ちていた。
しばらくして、お昼ご飯にふたりを呼ぶと、健人といったがそろって「わぁ」と声をあげた。
健人の好きなウィンナーがはいったホワイトシチューにりんごとポテトのサラダ、焼きたてのパンがテーブルの上に乗っている。
「す、すごい、ママ、た、たくさんパン、焼いたね」
健人の言葉に、綾が「いった君がうちに遊びにきてくれるっていうから、がんばってたくさん焼いたの」と言うと、いったが恥ずかしそうに下を向いた。
「い、いった君、ママのパン、とってもおいしいんだよ」
大きな籠に積まれているパンをふたつ、手にとった健人が、そのうちのひとつをいったに手渡した。
手にしたパンをじっと見つめながら、いったが「ふわふわしていて、あったかい」とつぶやいた。
「焼きたてのパンは、みんな、あったかくてふわふわしていて、良い匂いがするのよ」
そう言った綾の前で、いったが大きな口をあけてパンにかぶりつく。
その瞬間、小さな丸い目をいっぱいに開き、パンを口にいれたまま、わぁ…というふうに口を大きく開き、驚いたようにパンを見た。
「お、おいしいでしょ?」
健人が尋ねると、いったがぶんぶんと首を縦に振った。
「おばちゃん、これ、おいしい。こんなにおいしいパン、僕、初めて」
「よかった」
パンをほおばるいったに、綾は「たくさん食べてね」と声をかけた。
健人が、パンを片手に高くあげて、大きな声でいったに叫んだ。
「ママのパンは、世界でいちばんおいしいんだよ!」
「そっかぁ、そんなに楽しかったかぁ」
いったの来訪を一生懸命報告する健人に、隼人が答える声が聞こえた。
「いった君、ママのパン、た、たくさん食べてた! おいしいって、た、食べてたよ!」
少し自慢気に言った健人に、「ママのパン、おいしいもんな」と隼人が返し、そして台所にいる綾に大声で尋ねた。
「何? パン、もたせてやったの?」
「うん、セントメリーのお友達、みんなで食べられるようにって、食パンも焼いておいたから、それといっしょに今日焼いたの、全部持たせた」
「そっかぁ」と言った後、隼人は「いった君、喜んでくれてたらいいな」と健人に言った。
まな板の上にある葱を切りながら、綾は背中越しに隼人に言う。
「あのね、来週の日曜日、いった君に『またおいで』って言ってあるの」
「あ、そうなの?」と隼人の声が聞こえた。
「僕、いった君といっしょにパン焼くのぉ」 健人の声が聞こえた。
お皿の並んだテーブルについた三人は、声をそろえて「いただきます」と言ってから、箸を取る。
「日曜、いった君来るんだったら、俺、外出してたほうがいい?」
隼人が、コロッケを箸にしながら綾に尋ねた。
「あのね、出来ればいてほしいんだけど、いいかな」
そう言った綾に、隼人が怪訝な表情を向けた。
「普通のおうちの日曜日がどんな感じかって、いった君、知らないと思うんだ。だから、そういうのを体験してもらうの、いいかなって思って」
そう言って味噌汁を飲む綾を、隼人は一瞬ぽかんと見て、そして声をたてて笑った。
「えー! 俺、ジャージ着て寝転がってたり、ゲームしたりするだけで、すっげぇだめな感じしかないんだけど」
「それがうちの普通の日曜日だから、仕方ない」
味噌汁の椀を置いた綾が笑いながら答えると、健人が大きく何度もうなづく。
それを見て、「ひでぇ」と、また隼人が笑った。
「いった君、焼きたてのパン食べるの、今日が初めてだったんですって。パン作ってみたい? って聞いたら、ものすごくうれしそうにうなずいてたから、じゃあまたおいでって言っちゃったんだよね」
今度は、隼人が味噌汁の椀を片手に、「え? いいんじゃない?」と綾に言ってから健人に向かって「おいしいの出来たら、パパにも食べさせてよ」と言う。
すると健人が、「ぼ、僕のエプロンいっこ、いった君に貸してあげるんだ」と、箸を振り回しながら大声で言った。
「健人、お箸は振り回しちゃだめ」
健人があわてて、両手を下げる。
「じゃあ、健人、来週の日曜日、いった君きてパン焼いたら、その後、パパと三人でゲームしよう!」
隼人がそう言うと、きゃーっと、うれしそうに健人が喜びの声をあげた。
「夕飯も食べさせてやれば? 帰りは、俺が車で迎ってってやるから。セントメリーには、ちゃんと連絡しておけば大丈夫だろ?」
隼人の言葉に、また健人が喜びの声をあげた。
「せっかくの休みに、なんかごめんね」と綾が言うと、隼人は気にすんなと手を振った後、笑いながら言った。
「いった君が初めて見る “おとうさんのいる日曜日”が、むさくるしいおっさんがヨレたジャージで寝転んでるだけとか、ものすごくかっこ悪いから俺、一応ちゃんとした服、着るわ」
その言葉に思わず吹き出した綾に、隼人が「なんだよぉ」としかめ面をする。
「健人の友達だもんな。パパもいった君と仲良しになりたいからな」
そう言って健人の顔をのぞきこんだ隼人に、健人がご飯粒を頬につけたまま、大きくうなずいた。