病理解剖について (敬称略)

先に載せた系統解剖は病気を扱ったものではない。正常に働いていた臓器が病気になり治療にもかかわらず亡くなった。死因となった中心臓器がどのようになっていたのか肉眼的に、また顕微鏡的に調べるのが病理解剖である。この解剖には乗り越えなければならないバリアがある。バリアとは 患者の家族が解剖を許してくれるかである。                  ほとんどの場合もうこれ以上傷つけたくない、一刻も早く家に連れて帰りたいと言われる。その時の語句は「医学の発展のため協力をお願いできないか」である。                            どうぞどうぞと言うような話では無い。2回目はない。大学病院で死ぬということにおいて家族は解剖を頼まれることを知っているようで返事は用意されていてNOかYESである。Noなら原因となった臓器だけ解剖させて欲しいとお願いする。これでダメだった事はなく受け入れられて病の中心臓器だけの解剖になる。私たちは変な言い方になるが剖検になりそうな死亡例があると「大丈夫だった、解剖取れたの」と聞くのが当たり前になっていた。「大丈夫だった、取れた!」

ではどのように病理解剖は行われるのだろうか。当番の病理医には解剖になる前に患者さんの情報は届いている。系統解剖では手袋や前掛けをつける事は許されなかったが病理解剖では長靴をはき前掛も使用していた。忘れてしまった。                              私が学んだ大学では病理解剖の当番になっている学生は授業中でも呼び出され病理解剖室にいく。名簿順に2人1組が授業を中断して解剖室へいく。その病理解剖は医学生にとって貴重な機会である。系統解剖と違って今まで生きていた人の解剖になるわけだから学生は期待とその場で成績をつけられることがないのでリラックスしている。
私は系統解剖と同じように病理解剖日に当たる前日から緊張していた。病理解剖室には家族も入室しているが少し離れて見守っている。解剖医に余計な手間がかからないよう準備されていて遺体は解剖台に載せおかれている。全員が遺体に礼をして開始される。学生はただ見るだけである。

私が初めて病理解剖の実習に立ち会ったのは産後輸血を必要とした病態になり劇症肝炎を起こして死んだ若い女性だった。顔色は黄色く染まっていた。1時間位で解剖が終わり遺体は縫い合わされて服を着せられて家族にもどされた。赤子が残され家族の悲嘆はいかほどであっただろう。現在では肝炎ウィルスが特定され輸血による肝炎は無いことになっている。病理の先生は当番の私たちはあまり見ない症例に立ちあって運がよかったと言われた。覚えていたのは肝臓がボコボコして灰色になっていたことである。

学生での病理解剖の中心は組織学である。私が忘れられないのは組織学の先生が覚えるべきすべての臓器のプレパラートになった組織を赤と青の白墨でどんどん説明しながら書いていく。私たちはそれに遅れないようにノートをとるのが楽しいというか必死だった。先生が消さないうちに書き移さなければならない。顕微鏡下での学習はヘマトキシリン・エオジン(HE)染色されている標本(プレパラート)で教室での講義と並行して午後に行われ書き取ったノートと対応しながらである。試験があったかどうかは忘れてしまった。私たちの大学では成績をつけなかったのではないか。つけたとしても本人に知らされることはない。学部1年から2年になる時は試験があったかもしれない。試験はする側の負担になるので基礎医学と臨床の勉強の試験は1年に2回ぐらいであったかと思うが忘れてしまった。卒業試験はほぼ10ヵ月にかけて実施されるので試験漬けであったことを覚えている。 

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