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Someone like you もしかしてヴァン モリソンが結んでくれたかもしれない縁



夫とは18年前に友人の引越しを手伝った時に知り合った。その場でお互いの携帯電話の番号を交換して、また会おうねということになった。彼は私の住んでいた都市の近くの町の出身で、ドイツらしい中世の街並みが残るその町を案内してくれるという。その頃まだおぼつかないドイツ語と悪戦苦闘していた私は、ドイツ語で電話をかけることを極力避けていたのだけれど、この時ばかりは好奇心が勝って、決死の覚悟で彼の携帯電話の番号を押してみた。呼び出し音がなっている間、心臓が息苦しくなるぐらいバクバクとしてきて、両手の指先も気のせいか痺れてきたような、もう居ても立っても居られないような心地だった。ようやく繋がった電話の向こうはあまりにもガヤガヤとうるさくて、彼がなんといっているのかさっぱり聞き取れない。何度も聞き返してようやく彼が、すぐにかけ直すから、といっているのがわかった。電話を一旦切り、ちょっと待っていたらすぐに呼び出し音が鳴った。今度はちゃんと聞き取れるし、ゆっくりとしゃべってくれるので、ドイツ語なのにいつもよりスムーズに理解できて、すごくほっとしたことを今でも覚えている。周囲がうるさかったのは野外コンサートの会場にいたからで、今はそこから少し離れたところで電話をかけているから大丈夫。何の気なしに「誰のコンサート?」ときくと「ヴァン・モリソン」という。それを聞いて私はおもわず「ヴァン・モリソン!?」と絶叫してしまった。だって電話をかけている私の部屋で流れているのも、まさにそのヴァン・モリソンだったから。これが今ビルボードチャートナンバーワンアーティスト、とかいえば別にそんな偶然もたいしてびっくりしなかったと思うけれど、私のなかではヴァン・モリソンはそんなに超メジャーではなかったから。(ドイツに長く住むようになってから、ヴァン・モリソンはドイツではかなりメジャーな存在で、夏の野外コンサートのシーズンには頻繁にドイツで演奏していた、ということを知ったけれども)そのことを伝えると彼もびっくりしたようで、でもなんとなく嬉しそうだった。そして、翌週に地元の街を案内してもらうための待ち合わせ時間や場所を手短に決めてその時は電話を切った。そんな他人から見れば他愛のない偶然も、私たちふたりにとってはとても大きな意味を持ち、何といっても、ヴァン・モリソンからこの出会いは大丈夫、と太鼓判を押してもらったような、そんな気がするのだ。

はじめて2人きりで会ったときには、ドイツに来て2年近く経っていたにもかかわらず、私のドイツ語はまだ初級と中級の間ぐらいで、彼の言っていることも半分ぐらいしかわからなかったような気がする。それなのになぜか、長い時間をずっと、よく知らないドイツ人と2人きりで過ごしているというのに、まったくといっていいほどストレスを感じず、終始肩の力を抜いて自然体でいられた。ひさしぶりにたくさん、心の底から笑ったような気もする。

夫は当時歯科工房で働いていたけれど、本当は障害者の介護などをする資格を持っていて、そちらの方が本職だという。その資格はドイツ語で「ハイルエアツィーウングスプフレーガー」といって(ひどく長ったらしく舌でも噛みそうな言葉だ)といい、直訳してみると、ハイル=癒す、エアツィーウング=教育、プフレーガー=介護する人、となり、つまりは介護するだけではなく先生みたいに色々なことを教えたりもする、大変な仕事のようだった。当時の私はそういう職業があるということも知らなかったし、その単語をまず聞いたことがなくて意味がよくわからなかったので、夫がその職業について熱心に説明している間、「なにやらこの人は障害者に関係があるらしいな。もしかして、軽い障害がある人なのかも」と一瞬だけれど勘違いしてしまった。
勘違いしたのは未熟なドイツ語による誤解のせいだけではなく、彼のちょっと不思議な態度のせいもあった。その日は7月上旬の気持ちよく晴れた一日で、爽やかなドイツの夏にしてはめずらしく日差しがきつく、じっとりと汗ばむほどだった。よく私が子どもの頃には小学生ぐらいの男子が、Tシャツをうしろからまくり上げて頭に被り、ウルトラマンに出てくるジャミラという怪物になる、という姿をよく見かけたものだったが、そんなことをまったく知らないはずの彼がTシャツを同じように頭に被り、「ほんとに暑いなあ」とニコニコ笑っていた。子供心を忘れない、といえば聞こえがいいが、やはり大の大人が街中で突然そういう姿になってしまうというのは、かなり突拍子がない。いっしょにアイス屋に入ってアイスを注文すれば、「僕はバニラアイスが大好きなんだ」と、バニラ味のみでトリプルのアイスを注文している。「いくら大好きでも、トリプル全部同じ味だったら飽きるよ」と言いたくなったけれど、その頃はまだそれだけのことを瞬時にさらっと言えるドイツ語能力がなかった私はじっと黙っていた。
そういう些細なことだけれども、「?」という瞬間がいくつかあったので、なんとなくぼんやりと、「軽い知的障害があるのかな」などと思ったりしたのだった。
自分でびっくりしたのは、そう思ったことに続けて、「だけど、そんなことぜんぜんたいしたことじゃない」と思ったことだ。彼の無防備さ、周りに安心感を生むやさしさが、ドイツに来てからいつもギスギス、トゲトゲ、ビクビクしていた心にじーんと染み込んできて、ずっと前から知っている、とても信頼できる友人に再会したような、心からほっとしたような気持ちになっていた。
そんな私のちょっとした勘違いはすぐに訂正されたけれど、自分が夫に対して「障害があってもいい」と思ったことは長く私の心に残っていた。

その日から付き合い始めた私たちはもう18年間パートナーとして一緒にいる。結婚して17年が経ち、子供も13歳と10歳になった。その分だけお互いに歳をとり、当然のように2人の関係もだいぶ変化した。パートナーとしてだけではなく、2人の子供の親として、時には老いた両親を持つ成人した子供として、たくさんの責任と義務を背負う年齢になった。お互いに対して不満もたくさんあり、うんざりするところも数え上げればきりがなく、喧嘩もしょっちゅうする。
気がついてみるといつのまにか、夫に対する不満が私の胸の中や頭の上に山のように積もっていき、その下で埋もれるように身動きの取れなくなった私は、夫には大人としての「何か」が少し欠けているのではないかと疑問に思うようになった。
例えば、どうもコミュニケーションがうまく取れない、とか。
例えば、悪意があるようには感じられないけれど、普通の感覚だったらそういうことは言わないのでは、という発言が頻繁にある、とか。
どこか夫はおかしいような気がする。それとも私の考え方、感じ方がおかしいのかもしれない。私がなんでもかんでも相手のせいにしようとするから、ふたりの間で日々小さな諍いが絶えないのではないか。どっちなんだろう。
そんな風にしょっちゅう曇った心でいた私に、ふと降りてきたのは「大人の発達障害」という言葉だった。そうやって括りができるとなぜか人は安心する。そうやって括れたからといって、何かが解決するわけではないだろうけれど、それは曇った心に差す一筋の光のような気がした。
そして、18年前に初めて出会った時のことを思い出した。そうだった、私は夫がどこか障害がある人かもしれない、と勘違いしたのだった。だけどすぐに、障害があってもべつにかまわない、とも思ったのだった。それを補って余りあるものをこの人は持っている、と感じたからこそ、一緒に一歩を踏み出すことにためらわなかったんだった。だったら発達障害かどうかなんて、夫の社会生活に支障がない限りどうでもいいじゃないか。なにかが変わったわけでもないのに、少しスッキリした気持ちになった。

結婚して4年が過ぎ、1人目の子供を授かった頃から、夫はまた障害者介護の仕事に戻りたい、といろいろな施設に履歴書を送りはじめた。長年のブランクのせいかなかなかこれはという施設に採用されなかったが、やっと2人目の子が生まれた頃、現在の勤務先である特別支援学校に就職が決まった。教員だけでは手の回らない、生徒たちの身の回りの世話や(オムツを替えたり、食事の介助をしたりなど)スポーツの時には付き添いや補助をする仕事をしている。学校の催しものなどに行くと、夫が生徒たちからとても親しまれ、好かれているなあ、と感じる場面によく遭遇する。きっと普通の大人より無防備で、不器用な夫に生徒たちは親しみを感じるのかもしれない。家ではマイペース過ぎて家族と不協和音を奏でたりもする夫だけれど、職場では調和を生み出しているみたいだ。夫自身も、特別支援学校の生徒たちに囲まれていると居心地がいいらしい。(それなりにストレスがないわけではないらしいけれど)

私の方はといえば、ここ何年かは完全に専業主婦で家の中のことばかりに目がいってしまうせいか、子供たちにはしょっちゅう怒ってばかりいるし、夫への苦情、文句の類もすごく多い。そうして、原因はすべて相手にある、私はすべて正しいんだ、という勢いで日々を過ごしていると、だんだん家族みんなの顔が暗くなってきて、雰囲気も悪くなってきて、自分の気持ちも鬱屈としてきて、あれ、いったいどうしたんだろう、とふと思う。私は家族のために「必要なこと」「正しいこと」をしているだけなのに、家族の誰も笑顔になっていないってどういうことだろう?
私が頑張らなかったら我が家はきちんとした生活から程遠くなってしまう、という自負のもとキリキリしながら生活していたある年末、子供たちに日本のお正月を体験させたくて、私と子供二人だけで日本の実家に里帰りすることにした。子供たちはその当時まだ7歳と5歳だった。普段から育児は私一人で頑張っていると自負していたので、父親である夫がいなくても全く問題ないだろうとタカをくくっていた。それが、もう、日本の実家に着いたその日の夜中から、子供達は「パパに会いたい」「さびしい」と大泣きしている。泣きたくなったのは私の方だった。
初めて出会った時に、片言のドイツ語しかできない私をほっとさせることのできた夫は、子供たちの心も日々何気なくほっとさせていたんだな、と思い知らされた瞬間だった。と同時に、私には母親として何か足りないところがあるのかも、と思った瞬間でもあった。

去年の秋、12年間ずっと休んでいた(さぼっていた)作品制作を再び始めた。
家事と育児ばかりの生活をしていてつくづくと、家事には上達はあるけれど到達はない、と思った。そして育児に関しても、始終どこかで後悔ばかりしていて、なぜか自信が持てないでいる。あの時ああしておけばよかった、とか、あんな風に子供に言うべきじゃなかった、なんてことをしょっちゅう考えている。ようするにいろんなことに自信を無くしていた。この12年間自分のために何かを積み上げてこなかったような気がして、急に焦ってしまったのだ。
子供にあまり手がかからなくなったら制作を開始しようとは、ずっと思っていたのに、どういうわけか思い腰をあげることができないでいた。そんな期間に、何人かの友人からありがたく厳しいプレッシャーをかけてもらって、なんとかやっと始めることができた。いまでもサボっていると、どんな感じ?ときかれて慌ててしまうことがある。そんな友人たちには感謝してもしきれない。
大それた野望もなく、展覧会の予定もなく、今はただ、12年前に立ち止まったところから前に進んでいきたいだけだ。それはたぶん、ずっと手をつけられずにいた宿題みたいなものかもしれない。この自分の宿題にちゃんと向き合って前に進めたら、夫や子供たちに対してもゆたかで穏やかな気持ちをもっと持てるようになるかもしれない。

ヴァン・モリソンに『Someone like you 』という曲がある。挿入曲としてもいくつかの映画にも使われているので、耳にしたことのある人は多いかもしれない。

Someone like you makes it all worth while
Someone like you keeps Me satisfied.
Someone exactly like you.
 あなたみたいな人が すべてのものに価値を持たせ
 あなたみたいな人が わたしを満たしてくれる
 まさに あなたみたいな人が

私にとっても一時期、夫がまさにこの、Someone like you のような存在だった。私が夫にとってそういう存在になれたかどうかは私にはわからない。そうであればとても良いと思うけれど。この歌詞の中で、「私」はこの「誰か」を探して世界中を旅して回る。結婚して何年かぐらいまでは、やっとこの人と巡り会えた、なんて思っていた。それが、心の中に夫に対しての不満が積もりはじめいつまでたってもその不満の山が減ることがなくなってくると、私が探している誰かは本当はどこか他のところにいるかもしれない、なんて思うこともあった。でも、きっとそういうことじゃないんだ、もっと大切なことがあるんだ、と気がついたのは、ここ何年か離婚していった何組かの友人たちの話を聞いてからだ。友人たちがその後どんな気持ちで暮らしているのかは本当のところはわからないけれど、子供達が小さい頃から家族ぐるみで付き合ってきた家族の形が今はもうどこにもないのかと思うと、私のほうもやり場のない喪失感に包まれてしまう。

ゆたかさとはなんだろう、という問いにどれか一つこれだ、という答えはないのかもしれない。人はそれぞれ異なる物差しを持っているものだし、人生のどの状況を生きているかということでも異なってくるだろう。
夫と出会ってから18年間、家族を築きながら一緒に過ごしてきて私が感じていることは、ゆたかさとは、あれが要る、これが欲しい、といって、たくさんのモノやコトを足し算していった先にあるものではなく、すでに、自分の心の中にあるものを、慈しんで大切にした人が見つけられるものなのではないかな、ということだった。ヴァン・モリソンの歌をひさしぶりに聴きながらそんなことをつくづくと思っている。

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