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幸せでありつづけることと、死の恐怖
こんにちは。
ハナです。
今回は、「幸せでありつづけることと、そのときに自覚した死の恐怖」について書いてみたいと思います。
※個人の気づきです。
もしかしたら人によって不快に感じることもあるかもしれませんので、
そう思われたらどうぞお戻りくださいね。
モーニングページからの気づき
はじめに、どうやってこれを自分の中から発見したかというと、
ちいさなハナちゃんとの対話からなのです。
わたしは毎朝、モーニングページ(モーニングノートとも)を書いています。
簡単に言うと、脳の中をそのまま言語化していく試みです。
わたしの場合はB5のノートに起きてすぐ、2ページ書くことを続けています。
わたしは、この時 時間にちいさな自分との対話をしています。
内容
今回の内容は、このようなものでした。
どうもすべてうまく行っていて、今までのわたしには考えられないようなすてきな人たちが周りにいて、毎日のようにギフトが来る。
こんなに幸せでいいのだろうか。
今までだったら、
「わたしなんてこれくらいでいいや」や
「こんなにもらうからには××をしてからでないといけない」など、
卑下したり罪悪感を感じていたりしていました。
でも最近それがなくなってきてしまったのです。
それ自体、生きるのが少しずつラクになっていることだとは思うのです。
しかし、そのうちに、
条件なしに幸せであることが怖いというきもちがでてきました。
それは言い換えると、
絶対的に安心感があり、自由であることが怖いということ。
そんなふうにのほほんと生きていたら、命の危機にさらされたときどうするんだということでした。
死ぬことは怖いこと。
なぜなら、死ぬということがどういうことなのかわからないから。
それはどんな感触がするのか。
死んだらどうなるのか。
死ぬというのは悲しくて、
延命治療などで可能な限り避けたいことだと、
社会から教えられてきました。
あたりまえですが経験がないからわからない。
そしてわからないことは見えないことなのだから、即座に頭の中で「怖い」という感情としてあらわされるようなのです。
それに気づいたとき、わからないことを即座に怖いと退けるのではなく、
「問い」にしてあげようと思えたのです。
問いとして持っておくこと
死とは、わたしにとってなんだろう。
どんな意味をもつのだろう。
人生の中でどう機能してくれるのだろう。
わからなくていい。
死ぬときにわかるかもしれないし、
わからないかもしれない。
それでいいと思えたのです。
学校教育では、どうしても「答えがわかる問い」が求められます。
即座に答えを出さなければならない。
それも、はっきりと言えた方がよい。
そのように教えられたことは、無意識下で習慣になっていて、しばられていることさえ気づけない。
問いをもつこと。
あいまいなままにしておくこと。
そうするには、
いつも葛藤がありますが、
わたしがすてきだなあと思う人を観察しているとどうもその人なりの「問い」を持ち続けておられる方ばかりなのです。
即座にわかった気にならず、
やわらかくしなやかに、
問い続けられるひとでありたいと思います。