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蛙の子は蛙

“蛙の子は蛙、そんな風には言わせない。あなたを生涯愛します”

そんな恋文を書き、母と結婚した父が、数十年後、他の女性とままならぬ関係になっていたことを知ったのは、いつだったか。
当時の私は、深く傷つくとか、そういうのはなく、「えーーーー」くらいの感情だったと思う。


まずは一匹目の蛙のお話。
父の父、つまり私の祖父は、この世にいないことになっていた。
小学5年生くらいのある日、兄と一緒に父の車に乗っていた私が、
「ねぇ、そう言えばおじいちゃんっていつ死んだん?たしか戦死・・・やったよね?」
と尋ねた。ただの素朴な疑問だった。はずなのに、父はこう答えたのだ。
「お前もそんなこと気にする年齢になったか・・・」
すかさず「え!なになにー!?どういうこと?!」と明らかにテンションが上がる兄と私。退屈な日常の中の、ビッグニュース!ドラマで見た世界に自分たちも足を踏み入れられたような特別感、そんな反応だったと思う。多くを語らずに黙り込む父。なんとなく察した私たち。その時の記憶はそこで途切れていたのだが・・・

数年後、死んだはずの祖父は、ひょっこり現れた。
我が家に、つまり、元妻・祖母のいる家に。親戚が揃っていた日の、墓参りの季節だった。
「ちかちゃん、見て!あれ、おじいちゃん!ほ〜ら、おばあちゃん、顔赤くしとる〜!」
下世話な話が大好きな叔母が、したり顔で、遊んでいた私の服を手繰り寄せ、家の扉のガラスの向こうを指す。その先に見えたのは、父に驚くほどそっくりな祖父と、少女のような顔で照れつつ、お茶を出すタイミングをはかる祖母の姿だった。
なんとなく見てはいけない気がして、そこからは廊下から時折覗くだけだったが、祖父も少し気まずそうに、でも思ったより明るく話していた。息子であるはずの叔父が、まるで営業先の相手に対するように、敬語で、笑顔で話していたのもすごく印象に残っている。怒りや涙に満ちたそれではない、その意外すぎる再会の様子に私は、「なんかドラマとは違うな」と思ったのだったか。
しかし、のちに聞く実際の彼らの話は、なかなかにドラマチックだった。

祖父は、父が高校生の頃、職場で出会った若い女性と恋に落ちた。バスの運転手とバスガイド。めちゃくちゃベタで、こっちが恥ずかしくなる。
実際のところ、恋に落ちたかどうかは本人にしか分からないことだが、いわゆる「愛のある不倫の末」というやつなのだろう。女性との間に子どもができ、そちらの家庭を選んだ、らしい。

「離婚」という、はっきりした形をいつとったのかは分からない。
時代的に、子どもたちの就職や結婚に影響しないよう、紙での交わしごとは、ずいぶん後になってのことだったのかもしれない。
とにかく祖母はずっと祖父の苗字を名乗っていて、結婚指輪をしていたままだった。祖父の話は良い話も、愚痴も一切しなかった。きっと息子たちに対してもそうだったんだと思う。
ただ思い返すと、後に出てきた祖母のアルバムは、不自然にはがし取られた写真の跡が、たしかにいくつもあった。

「あれも気の強い女やったからなぁ」と、数年後、祖父が言っていた。いや、お前が言うな、という突っ込みがまず出てきそうなものだが、たしかに祖母は気高く、負けず嫌いな女だったと思う。
謙虚さが美徳とされる田舎にいながら、祖母はいつも背筋をしゃんと伸ばして、少し圧倒されるくらい、堂々としたところがあった。生まれが東京の下町で、疎開で引っ越してきた時は、子どもながらに、それはそれは苦労したらしい。
「向こうでは転校生なんていったら、休み時間にその子を囲んで質問攻めの大騒ぎ。でもここは違った。みんな、廊下の窓からのぞいて、こそこそこそこそ〜っとしててね。国語の授業で大きな声で音読したら笑われたわ。こっちではみんな、虫が鳴くような小さな声で、うつむいて読むんやから」
ただ祖母は、田舎の悪口を言いながら暮らしているわけではなかった。
祖母が転校してきてからは、毎年彼女が学級委員に任命されたことを嬉しそうに話していた。まだまだ男女差別も偏見もあったであろう田舎で、なかなかの革命だ。年老いてからも、街に出る時は前日から髪を巻いておしゃれをし、普段は「楽しい、楽しい」と言いながら田畑を耕し、綺麗な白肌に似合わず、手は黒くぼこぼこになりながら、よく働いた。地域の祭りとなると、江戸っ子の血が騒ぐのか、目を輝かせながら、どんどん人が多い危険な場所に突き進んでいくものだから、小さな私は手を離さないよう、ついていくのがやっとだった。
今思えば、ただ田舎の悪口を言うと言うことは、自分の選んだ人生を認めないことにつながるから・・・それは祖母にとって我慢ならないことだったのかもしれない。そういえば、人とはよくぶつかっていた祖母だったが、愚痴を言っているのは聞いたことがなかった。愚痴を言うのは、恥ずかしいこと。人前で夫のことを悪く言わないのも、そのためだったんだろうか。気高い人だった。
その気高さが、強さが、結局のところ、夫である祖父にとっては息苦しかったのか、俗に言う、「お前は一人でも生きていける、でも彼女は俺が守らなきゃ生きていけない女なんだ」ってやつだったのか。そんなことは今さら知る由もない。

そう、私はマザコンならぬ、生粋のグランドマザーコンプレックスなのだ。

だからだろうか、祖母の葬式で、親族に向かって土下座を披露する祖父を、兄が冷たい目で「許さない」とばかりに見下ろしていたのが、なんか、なんだか、、違う・・・と思ってしまったのは。

祖母は、慰謝料なども一切受け取らなかった。
祖父が新しく築いた家庭は、3人の子宝に恵まれ、皆無事に成人し、それぞれ結婚もしたようだ。(もちろん祖父は祖父で、彼なりにいろんなものを背負った人生だっただろう)
祖母は、田舎で、後ろ指さされないよう、見事に、気高く、生きた。不器用で、まっすぐな人だった。
こつこつ働いたお金で、子どもたちを育て、孫たちを愛でて、大きな財産も、借金も残さず、きれいに去った。その人生をまっとうしたように思う。

最期の2年ほど、彼女は病に伏し、時に少女に、時に赤ん坊になった。
凛々しかった祖母の変わり果てた姿を哀れんだ目で見る心優しき人たちを、私は当時、睨んでしまっていたかもしれない。
そんな目で見ないで。おばあちゃんは、いつだって、かわいそうな女なんかじゃない。お願いだから、そうであって・・・!

入院していた病院にお見舞いに行った時、まだ意識もしっかりしていた頃、祖母が小声で私に言った。
「ちかちゃん、あの女の人、見てみ。ああやって、いつも、旦那さんが来る時間が近づくとね・・・」
5人ぐらいの部屋。カーテンの隙間、向こう側のベッドに座り、祖母より少し若いくらいの女性が唇に、丁寧に、丁寧に、赤いリップを塗っていた。
横を見ると、微笑ましそうに、どこか切なくも見える祖母の顔。
そうだ。あの時も、私は見てはいけないものをみた気がして、慌てて目を逸らしたんだった。


おばあちゃんも、ああやって、おじいちゃんを待ったこと、あった?

久々に会えたあの時、本当はちょっと嬉しかったん?


聞けなかったことがたくさんある。
でも祖母に対しては、それで良かったと思っている。
これはまだ、ただの、一人の孫の記憶の話だ。


※追記
最初は「ふりんのこども」というタイトルで、タグなども付けていたこの投稿を6月6日に編集しました。たくさんの人に読んでもらいたくて書いたものではないな、とふと思い立って。
誰かを傷つけるために書いたものではないので、いくつかフィクションも入れて書いている、かも。書けるようになったら、続きを少しずつ書きます。
読んでくれてありがとうございました。

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