なぜ書けないかを書いていたら人生規模の話になってしまった
5月はひとつもnoteを書かなかった。みんなの書いたものを見ていると書きたいことがたくさん出てくるのに、いろいろ考えると書けなくなる。
誰かに命じられて絶対書かないとダメなものではないから、まあ別に書かなくてもいいか、と思う日もあれば、謎に落ち込むこともあって。
なぜ私は書けなくなってしまったのか、を考えてみる。
実は私はもともと“書く仕事”をしていた。今もライターの仕事はフリーランスとして継続中なのだが、子を産む前はつわり、子を産んでからは、想像以上だった〝我が子の子育て”(あえて〝子育て”とはまとめない)の大変さに、なかなか仕事を受けられない状態になってしまった。
フリーランスには産休も育休も有給もない。でもシンプルに、やった分だけ報酬がもらえるという生き方を私はとても気に入っていた。
40度近くの熱を子からもらっては、何とか子を寝かせ、寝たと思ったら夜泣き(というより幾度とない発狂呼び出し)に応えながらも、夜な夜な締め切りギリギリで書き上げたことはある。(武勇伝とかではなくただの現実。夫は夫でこの時期コロナの影響で収入ゼロになったり、突然激務になったり精神病んだりで、自営業でほぼ毎日家にいたにも関わらず、一緒に子育てをした記憶は数えるほどしかない)
でも、このへんまではおそらくワンオペ子育てあるあるで、自分にとってもある程度覚悟していた部類の大変さ。制作会社時代は休日出勤も泊まりがけもざらで、繁忙期は睡眠時間3時間でも嬉々として働いていたし、体力もある方なので寝れないのも余裕だと思ってた。それ以前に想像を超えた日々の積み重ねが、私にはきつかった。普段からうちの子は、起きている間、特に家にいると数分置きにあらゆる理由でキレるか泣くかするし、「かまうからよくない」という諸先輩方のアドバイス通りに、それでは、と一度そのまま様子を見つつ泣かせてみたら、一時間は泣き叫び続けた。正式には一時間を待たずに私の方が我慢できずに抱き上げたのだが、余韻でそのくらい怒り泣き続けてしまった。執念のパワーが強い。
しかしこれでは夫の仕事にも影響が出て、我が家にとって非常に困ることになる。泣けばあやさなければならないし、両家両親も遠方に住んでいて頼れない(近くにいても諸々の事情からできれば頼りたくない)。コロナ禍、肺に疾患を持つ夫的にNGだったので、行動範囲の読めない他人に預けることもかなわず、寝てる間に書くしかなかった。そして寝るのもあまり得意ではない我が子は、夜も何度も起きて、私がいないと叫ぶのだった。
体力的、物理的には何とかなるかもしれない。でもこのままじゃ私もどうなるかわからない、いつかきっと誰かに大きな迷惑を掛けてしまう、ともすれば・・・といろいろ恐ろしいことが浮かび、私は受ける仕事を大幅に減らした。書く仕事をしていた、と、過去形にしてしまうくらい。
と、ここまで書いたが、少しでも子育ての話に触れると、やっぱり話が膨らみすぎてしまう。そのこととnoteを書けないことはまた別の話なのに・・・!!!
話を戻す。書く仕事にもいろいろあって、私はおそらく、商業ライターというものに属する働き方をしていた。イベントや商品のキャッチコピー。インタビュー、ライブレポート、などなど。おそらく、というのは「こういうライターになるぞ!!」と思って動いたというわけではなく、楽しそうなことをやっているうちに、流れ流れてご縁がつながり、声を掛けていただけた仕事がたまたまそれだったから。恵まれていた。幸運にも手にすることができた“書く仕事”。しかもそれらは地元である田舎ではなかなかできない仕事で、関わった有名人の名前を出したり、記事を見せると親も喜び、やっと、当時アラサーにして(まんまと後に別れることになる)婚約者を地元にのこして上京した意味を理解してもらえた気もして、嬉しかった。
ただ、複雑な気持ちも常にあった。できた記事を友人やかつての同僚などに見せると「これって○○(私の名前)が書いたの?すご!」「あの人にインタビュー?!いい仕事できてよかったね!」「きれいな文章!」などと言われはするものの、純粋に内容を評価(という言い方も変だけど)してもらったことはほとんどなかった気がする。
最もだと思う。それらに”私の想い”はなかった。自分という存在は極力抑えて、万人に伝わる文章を目指して書いていたから。ライブレポートで、あまりにも感動的なシーンを目の当たりにした時は、つい文章も盛り上がってしまい、「とても感動したのは分かるんですが、あくまでレポートなんで、もう少し控えめに・・・」と編集さんに赤を入れられてしまった。(コンテンツによっては、ライブレポートってものすごく熱を帯びたものもたくさんあるが、私の依頼されたものはその種類ではなかった)インタビューの中で、宝物のようなことばをたくさんくださった方の台詞を書き綴っていた時も、当然、言い回しも変えつつ、まとめる必要があり、泣く泣く削った。
これらは、当然、私が反省すべきこと。求められているかたちにまとめるのが私の仕事で、それをどうしても覆したいなら、納得させるほどの提案や結果を見せなければならないのだ。
私には覆すほどのものがなかった。そして、その仕事に慣れてきて、書いたものにもほとんど修正が入れられなくなった頃、ふと気づけば、自分のことがうまく書けなくなっていた。
子どもの頃から自分の気持ちを表現するのが苦手だった。保育園で遊ぶ時間、みんながわーっと目当てのおもちゃやぬいぐるみを取りに行く中、一人で椅子に座って、目をつぶって、首をぶんぶん振ってみたり、ひたすらひたすらぼーっとしたりして、みんなの声がだんだん遠くなっていく感覚を楽しんでいたのを覚えている。余ったおもちゃや絵本を仕方なく手にとったりして、先生に理不尽に注意されても、拾ったきれいな石を奪われても、残念な気持ちになりつつ、何も言えない子だった。
だからといって何も考えていなかったわけではなく、むしろ実は早熟で、お昼寝の時間は寝なきゃだめなのに、死について、性について、いろんなことを思い巡らせていて、いつも眠れなかった。寝たふりがバレて外に出され(昭和の田舎の保育園やばすぎる)、おしっこがしたくなったけど、それを怒っている最中の先生に伝えるという選択肢も浮かばず、テラスと庭の間の溝にそっとおしっこをしたら、ついてしまったシミでばれ、罰としておやつの時間にみんなの前でデッキブラシで見せしめのように掃除させられても、恥ずかしい・・・と思いつつ、何も言えなかった。5歳児にそれをさせる大人の非情、世の無情を心の中で嘆くだけだったのを覚えている。
そんな私が変われたのは、文章を書くことだった。小学1年生の頃、「せんせいあのね」という日記が毎日の宿題だった。担任はベテランのおばあちゃん先生。このE先生が本当にすばらしかった。毎日、23人のクラス全員に書いた日記に丸(内容によって二重丸、三重丸と丸の重なりが増えてきて、最高だとページいっぱいの花丸)と、良い表現があった時は、その部分に線を引きさらに小さな花丸をつけて、それを“光ったことば”と呼び、感想もびっしり書いて返してくれた。「うまい!うまい!うまい!ようすが目にうかびました!」とか、「しょうらいはしょうせつか?」とか。E先生の書く赤い文字はいつも、うっとりするほどきれいだった。
私は毎日、家に帰ってから、花丸で満開のページを開き、小さな花丸の数を祖母と数えては「今日は光ったことば10個もあったよ!やったー!」と喜び合った。嬉しくて、もっと花丸が欲しくて、だんだん嘘日記を書くほどになっていたのだが・・・(傘をさして歩いていたら小鳥が肩に雨宿りしに来てうふふとなったり、架空の友達とかけっこしたり、兄が理想の兄すぎるキャラで登場したり、金網にしがみつくうさぎを抱いたらその胸にとくとくと流れるものを感じたり)E先生はきっと嘘に気付きながらもそこは責めずに表現を見てくれたんだと思う。ありがたい。
ただ日々を憂い、ぼーっと過ごしているようにしか見えなかった私の中の、ほのかな光を見つけ、それを、両手でそっと包むように大切に大切にすくってくれたE先生は恩人だ。(実は、私も上京前に、半年だけ臨時で小学校の担任を経験しているのだが、その時はE先生がしてくれたことを忘れないように努めていた。もちろん、到底及ばなかったけど)
E先生が亡くなったことを知った時は、上京してすぐの仕事帰りで、私はとぼとぼ歩きながら、ひとり、静かに泣いた。
書くことをきっかけに、表現することを覚えた私の少女時代は、どんどんきらめきを増していく。人前に立つと文字通り蚊の鳴くような声でしか話せなかった子が、壇上に立つことも増え、活発になっていった。中学では生徒会に誘われ、しぶしぶ引き受けた風に入り、文化祭もギャルに誘われ、歌い、踊った。高校も大学も、社会人生活も、それなりに大変なことはあったけど、楽しかった。
物心ついた頃からつねに恋愛もしていたし、分かりやすいメンヘラ期もあったが、痛くてかわいいポエムを書けるくらいには元気だった。嫉妬を買われないちょうどいい風貌と、暗黒(保育園)時代に培った観察力と注意深さもあってか、さほど人からも妬まれず、割と順風満帆だったのかもしれない。
(ここまでで、3611文字)
なぜだ、気づけば私の人生紹介文みたくなってしまっている。確かに今回はあえて着地点も決めず、目次とかも付けずに思いのままに書くと決めたけれど、思いのままの割になんか重い。これがリハビリなのか。
お付き合いくださっている方、ありがとうございます(泣)
つまり私は本来、書くことが好きで、というか自分の表現?としては書くことが他のものよりは向いていたはず(他のあらゆることができなさすぎるというのもあるけど)で、おかげで紆余曲折ありつつ、ライターという仕事にも就けた。けどライターにもいろいろあって、私がやっていたことは、表現というよりも作業的なところが大きくて、それは本来自分がやりたかったり、向いていたことなのか分からなくなって、そうこうしているうちに、子どもも生まれて書く時間そのものがなくなって、自分の書き方を忘れてしまった。
というかそもそも、子を産んでから自分の人生を振り返って、自分も相当生きづらいタイプの子だったことに何度も気づかされる。親はそんなのおかまいなしに私を育て、私も強くならねばと処世術的なことを身につけたからそれなりに生きてきたけど、子ども時代をのびのび、いわゆる子どもらしく生きなかったせいで、けっこう拗らせてきて、隠れコミュ障の中年反抗期みたいになってしまった。我が子にはそんな目にあってもらいたくないから、その意味では割と我が子はずいぶん幼いうちに爆発させてきてよかったのでは?と思ったりもして。(息子の気難しさや癇癪は以前よりはずいぶん減り、そのぶん周りの同世代の子より情緒が落ち着いてすら見える。好きなものは好き、苦手なことはスマートに断れるところが、自分とは違っていて、かっこいい)もちろん、まだまだわかんないけど。
まずは自分が本当は何が好きで、何が大切で、何を不快に感じ、何が許せないのか、そういうのを、こうしてちょっとずつ書いていくことで、私も、幼い頃の自分も、あらためて報われるのかも。そしてこれはたしかに多くの人も言うように自慰行為のようなものでもあるんだけど、意外とそれをのぞいてちょっと楽になったり暇つぶし程度でも楽しめる人がいたら、すごくいいなぁ、という思いもある。(私がnoteで読む皆さんの日記や文章では、どんなに心を溶かしてもらったかわかりません!)
基本的に私は、私のことなんてみんなそんなに興味ないよね、と思う。
でも自分の考えを書いて、できれば私が好きになった人(スイスイギャルズ)や私をよく知らない人に読んでもらえると嬉しい。(それならもう少し読みやすくすればよかったんですけど、すみません)
こういう場は読みたい人だけ読めばいいから、読みたくない人は読まないでという感じで私に責任はないと思っていて、ざっくりいうと好都合だ。
でもnoteはSNSともまた違うし、ちょっと書くと運営から「投稿がんばってますね!」とか通知くるし、これに励まされる人もいるかもしれないけど、私は「これはやっぱりがんばってやることなのか?!」と戸惑ったり、なんかコメントたくさんしたらバッジとかもらってなんか恥ずかしい・・・みたいに、どういうスタンスでいればいいのか分からなくなっていた。
歳を重ねると時間が限られてくるからか、何かにつながる行為でないことをすることに足がすくむようになる。私はnoteを何かにつなげようと思ったり、何につなげたいのか分からなくなったりしたから、怖くて書けなかったのかもしれない。
もう少し力を抜いて、息を吐くように書く感覚を思い出したくなってきた。
書きたいことも増えてきた。
夫に『○っぴんしゃん』のニックネームをイベント後の土産話でうっかり話したことがあって、それもいろんなことを書きにくくなった理由のひとつだと気づき、せめて検索ですぐには見つからないよう、微妙な対策をした。(私の夫はあの方の夫さんと似ていて、まっすぐ自分をさらけ出し、相手のことも知りたがるタイプなのだ。絶対見ないでほしいと伝えると、寂しそうにはしていたが、彼もnoteは普段開いていないし、しばらくは大丈夫と信じたい)
本当はもっと書きやすい環境を整えていきたいけど、応急処置的に準備はできた。
最後突然大急ぎでまとめてしまった感がすごいけど、もうすぐ一人の時間がなくなるので勢いのまま書いてしまった。完璧を求めるとほんとに続かないのが私。私にとってのnoteは「作品」ではなく、「息を吐く場所」にしたいから、これで公開してしまおう。そして、作品的なものは、また別に書けたらいいなと思う。
ここまでで5530字!
頻繁に書いてるみんなを本当に尊敬。
これから少しずつ書いていこうと思うので、ひとまずよろしくお願いします。