水をめぐる
3日前も昨日も一時雨の予報だったが、一滴も降らなかった。気温は連日33〜35度。畑は乾き切っている。日中は暑くて作業できないので夕方4時頃に畑に行く。野菜たちはみんなうなだれている。畑の前を流れる小さな水路からジョウロで水をすくい、一株一株かけていく。土が硬くなり表面を流れてしまうのでできるだけ2回に分けてかけるようにしている。
ジョウロに一杯の水をかけるとジョウロ一杯分の変化がある。30分も経てば、葉裏を見せてうなだれていた甘長唐辛子の葉が、少し開いて元気になる。ディルやフェンネルは倒れていた茎が途中から起き出して、たくさん花を咲かせてきた。匍匐していたスイートマジョラムやオルガノは茎が立ち上がってきた。10本挿し芽をしたステビアは2本は枯れた。8本は、ヨレヨレな感じではあるが茎も葉も緑で生きている、
毎日「雨が降りますように。」と祈る気持ち。山の方に入道雲がモクモクと立ち上がってくると「此方へ。此方へ。」と呼びかける。私なりの雨乞いだ。遠くで空に盛り上がる入道雲はいっこうに此方にはこない。畑を潤したいという望みが叶わず、思い通りにならない怒りが胸の辺りに疼く。今日はとりわけカーッと照りつける太陽が恨めしく、辛く感じた。
そこではたと気がついた。思い通りにならない現実ばかりに心のフォーカスがいっていた。不満が胸にいっぱいになり、「水をやりたい。」は「水をやらなければならない。」に変わっていた。「したい。」は容易に「しなければならない。」に変わってしまう。「雨が欲しい。」のは事実だが、私の本当の望みは何か。
「健やかに植物が生きていてほしい。」ということだ。「健やか。」とは何か。雨が降って、葉や花がたくさん茂り、たくさんの実りを得られることはもちろん、健やかだ。雨が降らず、水が十分に得られない状況で、葉っぱが丸まって葉裏を見せているのはできるだけ葉っぱからの水の蒸発を防ぎ、限られた水で生き抜こうとする一つの健やかさではないか。雨があった時期につけた大きい葉っぱが枯れて、ジョウロ一杯の水に見合った小さな新芽をつけるのもまた健やかではないのか。水が足りない中でオクラが根元近くから新しい枝を出し、その枝がぐるっと曲がって、葉っぱで根元を覆っている。葉っぱが日傘のように根元に影を作っている株が増えてきた。これも健やか。少なくとも病気ではない。枯れていたようにも見えたセージは水をあげていると弱々しい感じではあるが新しい葉が出てきた。そばによれば強い香りがする。
畑には嘘がない。植物たちの生きる姿、枯れる姿にダルマ、宇宙の法のようなものを感じている。
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