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日中戦争は、米国が仕掛けた『日米』戦争

┃「中国の脅威から、アメリカ様が守って下さる~♪」っという幻想
白人の世界秩序」とは白人が有色人種を占領するか、植民地にするか…いずれにしても白人に従わせる。
↑この状態に置いておくことが「白人の秩序」です。
これが第二次世界大戦迄の世界の常識でした…と,これは分かり易いです。
ところが戦後、白人はより高等戦術で同じ秩序を維持しています。日本もアメリカの『隠れ植民地』となり経済奴隷状態が続いています。
今回はその分かり易いほう~戦前について書きます。
この「白人の世界秩序」にそって米国は、支那を操りその背後で日本を攻撃していました。
大東亜戦争以前から我が国は日中戦争を戦っていましたが
それを仕掛けた首謀者
である米国は、日本兵に化学兵器を使用していた。中国側は少なくとも12回は使用したとイギリス公文書に記録されています。化学兵器禁止条約違反です!

以下 大東亜戦争以前から、
アメリカが日本に宣戦布告無しに仕掛けた日中戦争で、日本はアメリカと戦わされていた事実について再度転載します。(「週刊新潮」に連載された高山正之氏のコラム「変見自在」より)
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 米国は十九世紀末、日本封じ込めの一環としてフィリピンを植民地にした。
 米国支配を嫌う原住民はみな殺しにした。
米国の自己申告では「殺した地元民は二十万人くらい」(上院公聴会)という。

 米国は恐怖で屈服させたフィリピン人に今度は銃を持たせて訓練した。日本軍がきたとき彼らを米兵の盾にして戦わせるためだった。

 四十年後、予想通り日本車四万余がリンガエン湾に上陸した。
マッカーサー以下三万人の米軍は十二万人の現地兵を盾に戦ったが、殲滅されてしまった。

 この戦いを日本軍は「米軍と戦った」と記録する。
戦ったのは半分以上現地兵だったが、「フィリピンと戦った」意識はない。

 マレー半島では日本車は英印軍十万をやっつけてシンガポールを落とした。
 この戦いも日本はあくまで『英国』と戦った。
英軍の前衛はインド兵だが、インドと戦ったつもりはない。

 日本は中国大陸でも戦った。そこの中国人とはかつて日清戦争で戦った。
 その後は彼らを日本に留学させ、国造りを支援したが、あるときから彼らは反抗的になった。なぜかは “中国だけ” 見ていても分からない。

 たとえば米国を見る。
この国は日本が日露戦争に勝つとすぐ北京に清華大を建て、日本に流れる留学生を顎足つきで米国に誘った。

 米国から戻ってきた留学生は蒋介石につき、米国の意向に沿った反日政策を遂行した。
 孔祥煕や胡適がその代表格で、とくに胡適は「米国を引き込め」と盛んに蒋介石に吹き込んでいる。

 日本を潰さないとアジアの利権が危うくなると欧米諸国は認識していた。
 それでドイツは中国陸軍を強くして日本にぶつけた。それが第二次上海事変だ。
 米国は中国に空軍を持たせて日本を叩くことを考えた。
操縦は難しいが、歩兵がやっとのフィリピン人よりまだ中国人は使えると思ったからだ。
 で、第一次上海事変直後に米国は抗州に飛行学校を作り、教官にクレア・シェンノートらを派遣した。
 その成果が第二次上海事変だった。
日本軍はドイツ製の火器やトーチカ群にてこずったが所詮、中国軍は中国軍だった。
二十倍の兵力でも殲滅されてしまった。

 米国が養成した中国空軍はもっとお粗末だった。
黄浦江にいた巡洋艦「出雲」をカーチス・ホークHとノー・スロップ爆撃機で襲わせたが、三機が撃墜され、二機は「出雲の弾幕が怖くて」(ジョン・パウェル『在支二十五年』)適当に爆弾を落とし、外灘にいた中国人ら数百人を殺した。

 ウースン付近では中国空軍機が英巡洋艦を間違って爆撃したが、この中にシェンノートもいて危うく撃ち落とされそうになったと自伝にある。
 中国人の操縦下手にルーズベルトも呆れ、米軍操縦士に中国人を装わせて飛行機を飛ばすことになる。世に言う「フライング・タイガー」がそれだ。

 そのころにはドイツが手を引き、米国が代わって中国地上軍の強化も担当した。つまりここもフィリピンと同じに米国が装備から訓練まで面倒見て中国兵を米軍の代りに日本軍と戦わせた。
 それが見える形になったのが援蒋ルートの要衝、龍陵の攻防戦だった。
 そこで戦った五十三師団の平田敏夫と現地を歩いた。
 「中国兵は三日攻撃し三日休んだ。指揮する米兵の休暇に合わせていた」
「二万の中国兵が我々の守る山に取りついた。十分引き付けて撃った。
見る間に彼らは死体の山を築いた

 浮足立つ中国兵に後方から “米兵” の「突っ込め」という声が聞こえ、軽機銃の発射音が続いた。督戦隊が逃げる兵を撃つ音だった。
 霞が晴れたとき、遠くに白マント姿の米兵を平田は見た。
「米兵は一個中隊に一人がついていた。中国兵はほとんど子供だった」。

 米軍は子供でも鉄砲は撃てることを知っていた。
 龍陵にはここで戦死した米兵二十八人を祀る記念館があり、息子ブッシュの「日本と戦った中国との友情」を謳う手紙が飾られていた。

 中国で日本は米国と戦った。蒋介石も毛沢東も単に現地兵の番人だったのだ。                  (二〇一二年五月三十一日号)
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宣戦布告無しに戦争を始めたのは、アメリカです。
国際法「交戦国の一方に対し軍事援助するのは中立を放棄し戦争当事国になったものと見做す」
一方的な国家間の友好関係の破棄がある以上、真珠湾攻撃は宣戦布告なしでも合法です。

↓こちらはアメリカの歴史学者の見解です。
【必見!】ヒッグス博士の演説(5:00-


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