パパゲーノ界隈にいる(リブログ)
2年前の記事を思い出し、今日の気分に重なったので引用してみた。
ドン引きするほどされるほど、暗いテーマを書きたい日。
死にたいって気持ちがある。
でもそれは、あっちゃいけない、言っちゃいけない。
どれくらい大きなことで、どれくらいつらいことがあれば、「死にたい」って思ってもいい言ってもいい「資格」が得られるのだろう。
「ももさんと7人のパパゲーノ」というドラマを見た。
今のテンションにぴったりのゆるりとしたスピード感だった。
「死にたい気持ち」は一直線に「自殺」と結びつくわけではない。
「つらい時」「悲しい時」だけじゃなくて、「ホッとした時」「楽しい時」にだって傍らに「死にたい気持ち」がいる。
その割合が大きかったり、小さかったり、ものすごくフォーカスされていたり、隅に追いやられていたり、その時々で重さも深さも質感もくるくる変わっていく。
パーッと明るく元気に振り切って、どんな小さな欠片も残さず「死にたい気持ち」を一掃することが人生の目標なのだろうか。
ネガティブなこと、「死にたい気持ち」はあってはいけなくて、ポジティブなこと、「楽しい」「希望」だけがあっても良いもの。
それは本当だろうか?
そんな「片側だけ」の世界って存在するのだろうか。
そもそも、「あること」に対して、良いとか悪いとか、そんなの誰が決めていて「絶対」に揺るがない基準があるのだろうか。
「ある」のに「ないこと」にする。
「見えなくする」「見ないようにする」ことはできるかもしれない。
だけどそれは「ある」のままだ。
「死にたい気持ち」があっても生きられる。生きている。
それは、「なんとなく」だったり、「死ぬの怖そうだし、痛そうだから」だったり、「眠かったから」「楽しいことがあったから」「人に迷惑かけたくないから」とかとかとか、理由なんてあってもなくても、今、なんとなく生き延びた。そんな積み重ねで生きている。
そんな「生きてる」中で、「きれいな空だな」とか、「これ美味しいな」「めっちゃうける」「可笑しい」「かわいい」「尊い」とかなんとか、ふわっと緩んだり、涙したり、感動したり、うれしかったり楽しかったりする瞬間もある。
矛盾してようがなんだろうが、「死にたい気持ち」と「うれしい楽しい」は共存する。
だから「ないこと」にしなくていい。
あっていい。だってあるのだから。
「死にたい気持ち」をないことにするのではなく「ある」ことを認める一つに「相談すること」がある。
様々な相談窓口があるし、打ち明けられた時の聞く方の心構えのようなことも啓蒙されている。
「死にたい気持ち」を抱える当事者としても、相談を受ける立場の専門職としても「相談」が大事だと理解できる。
だけど実際に、自分が「相談」できるかというと、やっぱりハードルが高い。
どこか「相談」を信じていない自分がいる。
これが自分の生きづらさになっていて、さらに自分の仕事対する自信のなさにもつながり、結局生きづらさをこじらせている。
「相談」というと大それたことのようで、「何かをしなきゃ」いけない気になってしまう。
もちろん、真摯に向き合って、本気で「聴く」ことを意図する。
だけど、何かが出来るとか、いいこと言うとか、そんな小賢しい意図など超えた「縁」がある。
身近な誰か、家族や友人、公的な相談窓口、カウンセラー、どこが良いとか悪いとか、正解はないけれど、どこかで必要な誰かと出会うこともある。
話を聞くことなんて仕事になるのだろうか。
その意義は何か、成果とは何か。
そんな迷いがあった。今でもまだある。
「ビリーフリセットが出来る人」「ソーシャルワーカー」とか、何かの武器で固めるのではなく、そのままのこの私で、ご縁をつなぐ。
そんな「話を聴く人」として仕事をしていけばいいのかもしれない。
世界中の全ての人を救うためではなく、ご縁のあった人との「場」を「時間」を共有することで見つける力強い「存在」