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「対話」に興味津々
今日もせっせとモノローグを綴っています。
そんな私ですが、ダイアローグに並々ならぬ関心を寄せています。
近づきたい、無理かも、気になる、いやいや、、、私なんぞにゃ難易度高すぎです、って感じで様子をうかがっています。
先月は「修復的対話」の2泊3日の講座に参加しました。
こちらは、「Restorative Justice(RJ)」の訳として山下先生が使われている名称です。もともとの「Justice」だと「正義」とかって意味なのだと思います。RJも、回復的司法、修復的司法などと訳されています。
私にとっては「対話」という名がついていなければ、これほど興味を持たなかったように思います。
オープンダイアローグも、本で読んでなるほど~と思ったものの、残念ながら実践の場に参加したことはありません。
修復的対話もオープンダイアローグも、応用範囲は広いし、何のために学ぶ勝手いったら実践に生かすためでしかないのですが、学んだだけで終わっているこの体たらくは何なんでしょう。どうも進めないのです。恐れ?
そんな中、本日は「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に参加してきました。
こちらは、視覚障害者の方のガイドで暗闇の中を進み、視覚以外の感覚やコミュニケーションを楽しむソーシャル・エンターテイメントです。
以前から興味はあったのですが、なかなか機会がなく、今回はタイミングよくクリスマスバージョンの初日に参加することができました。
参加者8名+ガイドさん。
入る前、まだ明るい所での自己紹介。そうだよ、喋らなきゃいけないんだ、無理だーと逃げ出したくなる気持ちをぐっと堪えて飛び込んでみました。
真っ暗。何にも見えないなか、白杖を持ち、鈴の音を頼りに進むのですが、怖いのでそろりそろりと進みます。
足元の感覚が変わり、葉っぱ?芝生?どこだ????
「輪になりましょう」と言われても、どうやって????
声を掛け合い、なんとなく輪になり、シャカシャカ音のするボールを転がしてキャッチボールをしました。正面にいるひとの名前を呼び、ボールを転がします。ちゃんと届く、分かる、楽しい。
「電車に乗りましょう」
えっ???二人組になりましょうと言われ、隣の方と声をかけあいながら手をつなぎます。一緒に進むと安心感が増します。
「こっちに手すりがあるよ。」「ここがシートかな」「どうなってるの?」「ボックス席みたい」「窓があるよ」
声をかけ、手で触れて、座ってみて、音を聞き、イメージを膨らませます。
その後も、縁側に座ったり、畳の部屋でクリスマスカードを書いたり、カフェでお茶を飲み、ひとつひとつの体験が、「えー」「わー」の連続でした。
普段、どれほど視覚に頼って生きているかを実感しました。
さらに、人との距離感、あえて距離を取ろうとしている普段の行動が、暗闇ではできないんだなとぼんやり考えていました。
学生の頃、視覚障害の方のグループに何度かボランティアで参加していました。居酒屋に行ったとき、座敷の空間が分からなくて一か所に固まっていたことがありました。その時「見えている」私が、声をかけたり、手を引いたりしてバランスを取っていたのですが、その時の体験が「見えないってこういうことなのかな」の原体験になっています。
暗闇の中では、人との距離が近かったように思います。
ぶつかってしまうことも多かったけれど、ぶつかると、人がいると「安心する」と感想をおっしゃる方がいました。
そしてガイドの方も、ぶつかることが多いとか、肩に手をのせたり、手を引いてもらえると安心との経験をお話ししてくださいました。
「ぶつかることが安心」なんて、目からうろこ、コペルニクス的大転換でした。なんと!価値観が揺れる体験でした。
アンケートで、「あなたにとって対話とは?」という項目があり、直感的に「存在の証明」と書いていました。
私、こんなこと考えてるんだーと驚いたのですが、今、入力していたら「存在の照明」と変換されました。こっちもいいな。
対話とは、まだまだ人生の探求テーマになりそうです。