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圧巻のイヤミス「人間標本」を読んだ

今日も本を読んでいる。
最近、「仕事」である「ソーシャルワーク」のことが全く分からなくて迷子になっている。
ここに「答え」が書いてあるのではないかと期待してある本を読んだ。結果、当たり前だけど、そこに答えはなかった。「ない」ということが分かった。それはわかっていたことでもあり、「答え」が書いてないことに対しては、怒りや落胆などの感情は湧いてこなかった。まあ、そうだよね、やっぱりなと思った。
それでもいくつかの「収穫」はあった。それについては、ただいま熟成中。

というわけで、「学び」系の本ではなく、小説でも読んで気分転換しようと思った。移動中のAudibleでは「銭天堂12」を聴き、本屋さんで「人間標本」を購入して一気読みした。

本屋さんには魅力的な小説がたくさんあって、迷いに迷って「人間標本」を手に取ったのだけど、読み始めてから、もっとほっこりしそうな作品にすれば良かったと少し後悔した。
最後にざわっとするイヤミスどころか、最初から終始ザラザラする感覚がまとわりつく恐怖小説だった。
しかし、犯人が「人間標本」を作る過程が「わかりやすく」順序だてて描かれていて、はて?この話どう終着するのだろうと疑問が浮かんだ。まっすぐに一直線に、でも「それだけ」で終わる物語なのか?と。

もちろん、そんな単純ではなく、話が別の視点からのパートへと展開されていく。
イメージとしては、「倒叙ミステリー」のような構成かなと思った。
最初に感じていたザラザラした猟奇的な連続殺人事件が、次から次へと様相が変わり、最後はなんとも「愛」ではあるけれども圧巻の「イヤミス」だった。

印象的だったのは、「見る」ということ。
自分の人生のテーマとして浮上しているせいかもしれないが、それぞれの「見る」がズレていることを通して世界を捉え、何が真実かを決めている。
同じ景色を見ていても、となりにいる人と「同じ」ものが見えているわけではない。「視覚」の違いや「フォーカス」の仕方、その時の気分や今までの経験による「解釈」も「「感じ方」も人それぞれだ。
見ているものに「表」と「裏」がある。どこから見るかによっても変わる。

自分とは違う見え方を「そういう風に見えるのか」と理解したい。そんな願望があるのかもしれない。
どこまでいっても「他人の目」にはなれないけれど、それでも近づこうとすること、お互いを知ろう、分かろうとすること、それが「少しでも」近づけたと思う時に安心するのかもしれない。
そのために、言葉や文章、絵や音楽などの「表現」がある。

やっぱり「こわい」けれど、私にも「わかってほしい」と「わかりたい」という欲求はあるのだと思う。「ある」のだ。

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