「図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか?」
面白い本を読みました。
生きものの種を確定させることを「同定」といいます。「同定なんて図鑑をパラパラめくって同じのを探せばいいんでしょ」と思う人もいるかもしれませんが、そんな簡単なことではありません。「似ているのが多くて同定に自信がもてない」「どうしてパッと見で同定ができないんだろう……」。生きものが好きな人のなかにもこのように思っている方はたくさんいます。
この本は、「同定」について書いてある本です。
動植物にあまり興味がなくて、花の名前でさえも、かなりメジャーな物しか分かりません。まして、昆虫なんてまったく分かりません。
図鑑を見ても特定できない経験をしてきたし、そもそも図鑑をあまり見ることのない人生を歩んできました。
そんな私は、この本を読めば「同定」の達人になって、図鑑を片手にたくさんの花の名前や鳥の名前を覚えられるかなというお気楽な期待を抱いていました。
しかし、「同定」はそんな気楽なものではありませんでした。
本の中で著者が、「シダ」や「ハチ」の同定をしているプロセスが載hっています。正直、ちんぷんかんぷんで、気が遠くなるような作業です。
同定のプロセスと認知のプロセスは一緒だなと感じました。
例えば、言葉の概念としての「りんご」のカテゴリーにはすべてのリンゴが含まれると私たちは簡単に単純化して理解していますが、実物の「りんご」は、たとえ同じ品種であっても個体として一つとして同じものはありません。
まして、品種が違うとか、青りんごとか、絵に描いたりんごや写真に撮ったりんごもすべて「りんご」でカテゴライズして済ませることができます。
自閉症の子が「りんご」という言葉と実物の「りんご」を結びつけて覚えたとします。
その子にとって「りんご」=「りんご」そのたった一つの個体との結びつきなのです。だから、他のりんごも「りんご」と呼ぶためには、すべてのりんごに出会うたび「りんご」と名付ける必要があるのです。
もちろん発達段階とかもあるのですが、そのように世界を捉える傾向があるようです。
なので、「コップ」は水を飲むものとして結びつけられて認識されたとしても、他の「コップ」では飲めなかったり。ペットボトルから直接水を飲むことができなかったりという、いわゆる「こだわり」の行動特性に結びついたりします。
いつの間にか、自分の得意分野に引き寄せて熱く語ってしまいました。
というわけで、本を読んでも同定の達人になれるわけでもなく、むしろ同定の果てなき荒野を見せつけられ途方に暮れる始末です。
それなのに、面白い本に出会ったと心から思えるのです。それは、あまりにも著者の熱量がすごいからです。
著者は、生き物が好きで、さらに「名前を知りたくて仕方がない」という熱い思いを抱えています。その熱量で語られた本だからこそ伝わってくる「面白さ」がありました。
何かに夢中になる、好きなものがあるって本当にすごいことなんだなと改めて感じました。
私にとって、これだけの「熱量」を注いで語ることができることってなんだろう?
それが明確に分かっていれば、人生はもっと楽しく加速するのだろうな。それは「知の解像度が上がる」ことで、生物の種の同定よりもそちらの探求の方が馴染みがあるようです。