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不穏な空気をキャッチする
ふと、浮かんできた言葉「怨嗟」について考えた。
「おんさ」かと思ったが、「えんさ」と読むことを知った。
意味は、「ある人を恨んで、嘆くこと」と書いてあった。
使ったこともなく、読み方すら間違えていた言葉なのに、なぜに浮かんできたのだろう?
いつものグチグチ病かしら?
「怨」は「不満を抱き続ける」、「嗟」は「残念に思い、それを口に出すこと」という意味がある。
そうか、口に出すのか。
怨嗟の声がまとわりついていたのかもしれない。
なんか、分からんけど、ふと思ったので、そういうことにしておく。
昨日の続きで、「子育て罰」を読んだ。
昨日、社会全体の空気、価値観の中に「頑張っているかどうか」の圧力や分断を感じていることを書いた。
本の後半に、「あなたが生きていてくれるとすごく嬉しい」という感覚が日本には少ないと書いてあった。
人権や権利に「頑張っているかどうか」は関係ない。
追い詰められた人だけじゃなくて、みんなが生きづらい社会って、やっぱり嫌だ。
大人も、子どもも、みんな一人一人に権利があり、尊厳がある。
そんな風に思えるか、それがチャレンジなのだとしたら、私にもできることがある。
まずは自分が、「チッ、嫌な奴だな」と思ってしまうような人に対しても、「この人もちゃんと尊厳と権利を持った人である」というまなざしを持とう。
ソーシャルアクションが出来てないソーシャルワーカーという負い目を払拭しよう。大きなこと、輝かしい功績でなくても、確実に自分ができる一歩を踏み出し続ける。
大きなこと言っちゃえば、社会の空気を変えたいのだ。
自分の輝きを見失って自信をなくしている人の尊厳を取り戻すお手伝いをすること。これが私のやりたいことなのかもしれない。
ソーシャルワーカーの仕事も、ビリーフリセットのカウンセリングでその人の「本質」や「輝き」に焦点をあてることも、同じ目標でやっている。
わたしは何がやりたいのだろう?
そんな問いは常につきまとうけれど、おぼろげながら形が見えた時にコツコツと言語化していこう。同じことしか言ってないけど、それでいい。
ちなみに、「怨嗟」の反対語は「感謝」
今日もありがとう。
生れてきてくれてありがとう。
出会ってくれてありがとう。