「凍りのくじら」辻村深月
あれもこれもと詰め込んで、やりたいこと、やった方がいいことを片付けていく。
タスクをこなすことに達成感があれば良いのだけれど、「やり切ったぜ、ふぅ~」というより、追われている感じの一日だった。
次のこと、先のことを考えながら行動していると、心ここにあらず状態に陥る。そんな時は、楽しいことをしているはずなのに、楽しくない。とってももったいない。
そんな心ここにあらずな一日のすき間時間に「凍りのくじら」を読みました。
辻村深月さんの作品は、好きで何冊か読んでいます。
読み始めは、柳美里さんの「JR品川駅高輪口」みたいな雰囲気を感じました。ちょっと刹那的で、仲間といても一歩引いて冷めている自分がいるのを隠して生きている女子高生の目線て感じでした。
途中からは、グイグイ引き込まれてラストまで持っていかれる作品でした。
タイトルの「凍りのくじら」
流氷に閉じ込められて、最後は海に沈んでいくクジラのニュースから始まります。
どこにいても、私はその場にはいない。私の居場所はどこにもない。
そんな風に感じている主人公は、自分のことを「少し・不在」と名付けている。
ドラえもんの作者である藤子・F・不二雄先生を尊敬し、藤子先生がSFのことを「すこし・ふしぎ」と言っていたのを気に入り、人の個性を「スコシ・ナントカ」と名付けている。
「少し・腐敗」「少し・不幸」「少し・不足」、、、、、、、
「少し・不在」は、
どこにいても、そこに執着できない。誰のことも、好きじゃない。誰とも繋がれない。なのに、中途半端に人に触れたがって、だからいつも、見苦しいし、息苦しい。どこの場所でも、生きていけない。
その感覚が、自分にもあるな~と感じて、息が出来なくなって海に沈んでいくくじらと重なって、思う存分、切ない気分を味わいました。
最後に登場するのが、ドラえもんの「テキオー灯」という道具。
この光を浴びたら、そこで生きていける。息苦しさを感じることなく、そこを自分の居場所として捉え、呼吸ができるよ。氷の下でも、生きていける。君はもう、少し・不在なんかじゃなくなる。
22世紀まで待たなくても「テキオー灯」は使える。
自分が一歩踏み出せば、手を伸ばせば、世界と繋がることができるし、繋がっていたことを思い出せる。
息ができるって大事だな。