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コミュニケーションを諦めない
私の中に愛はない。
特別に殺伐とした荒野のような状況ではなくて、ただ、なんとなく、ぼんやりと、そんな感じがしていた。
「愛」という言葉の定義や捉え方の問題なのかもしれないけれど、自分の中にある感情とか何かを「愛」とは呼べない感覚がある。
あえてそんなことを考えながら、以前から興味を持っていた「ダイアログ・イン・サイレンス」に行ってきた。しかも現在「LOVEバージョン」開催中。
ダイアログ・イン・サイレンスとは、音のない静寂の世界で、言葉の壁を超えた対話を楽しむエンターテイメント。音を遮断するヘッドセットを装着し、聴覚障害者の方によるアテンドで、部屋ごとに目と目を合わせて、表情やボディランゲージでのコミュニケーションを体験していきます。
初めは、???分からない。大丈夫かな?と不安になるけれど、分からないからこそ、真剣に分かろうとする。相手の動きをよく見て、目を見て、表情を見て、一つ一つ確かめながら、分かったときには自然と笑顔になる。
分からなくても分かろうとする。
伝わらなくても伝えようとする。
コミュニケーションを諦めないのだ。
相手に興味を持って、知ろうと分かろうと歩み寄っていく。
伝わったとき、分かったときの喜びをこちらも身体で表情で伝えたい思いを表現する。あふれる思いを伝える時は、動作も大きく、表情も大きく動く、それが自然と出てくる。
ちょっと恥ずかしいかなとか思っていたけれど、本当に楽しくて、うれしくて、最後に輪になって対話をしていたらウルウルしてしまった。
こんなにも豊かなコミュニケーションがあるのかと、心がほんわか温かくなった。
この温かい気持ちは「愛」と呼んでもいいのだろう。
だけど、私の中では「やさしさ」とか「ありがとう」って言葉の方がしっくりくる。
愛がないから冷たい。ではなくて、この思いを伝えることをあきらめない。
繊細で微妙なこの思いにぴったりくる言葉が見つからなくても、言葉だけじゃない「思い」を「感情」を「熱」は伝えられる。きっと分かろうとして目や耳を傾けてくれる人がいる。
私は、いっつも、諦めていた。
どうせ分かってもらえない。
伝わらない。
私自身だって分からない。
分からなくても、伝わらなくても、知りたいよ、聴きたいよ、分かりたいよって思いを持ってもいい。
その気持ちが伝わるから、あきらめずに伝えようという勇気が持てる。
私は、あなたの思いを「知りたいよ」「聴きたいよ」と目を逸らさない人でいたい。そんな思いを強くした。ほんわかと温かい心に誓う。