「物語としてのケア」ナラティヴ・アプローチの世界へを読んだ
相変わらず、毎日本を読んでいるのだけど、なんとなく「捗らない」感覚がある。途中で止まってしまった本が積まれているのを承知で、うっかり本屋さんに立ち寄ったら、またまた4冊購入し、レジに並んでいる時に目についた1冊をさらに手に取ってしまった。
が、今日購入した本はまだ開いておらず、とりあえず移動中にはAudibleを聴き、、カフェ読書&自宅にて図書館で借りて滞っていた「物語としてのケア」を読了した。
理解しているようでしていない「ナラティヴ」に挑む。
わたしは「言葉」を信用していないところがある。一方で、「言葉」でしか形づくることができない世界、関係性があり、どれだけつたない言葉であってもとりあえず形として一旦「言葉」にしなくてはならない必要性も感じている。
「言葉が世界をつくる」
社会構成主義では、この前提が用いられている。
「言葉」が先にあって、それが指すところに世界が経験されるのだ。わかるようなわからないような、、、
今回一番刺さった部分が「傾聴と共感」についてだった。
「何のための傾聴と共感か」という括りで、来談者中心療法のロジャーズとナラティヴ・アプローチの違いが書かれていた。
ナラティブ・アプローチでは「望ましい成長過程」という専門知をも放棄すると書いてある。
完全に咀嚼できているわけではないが、この部分、今、自分のモヤモヤを解消するキーになる。
そもそも「問題」ってなんだ。「正しい」「望ましい」「あるべき姿」に苦しめられているのではないかとの思いがある。
その思いが強くなると、自分自身の専門職としての存在意義に疑いが生じる。
しかし、専門知に頼らない「新しい物語をともにつくりあげていく」という新たな役割については、できるできないはともかく「ワクワク」する響きがある。
こちらの「支援しない支援の方法」って、ブクログで確認したら2019年に読んでいた。
ずーーーーっと同じところでクヨクヨして彷徨っている。
言い方を変えれば、こだわりポイントなのだろう。
うっかり専門性っぽい「説明モデル」の罠にはまりがちな自分を全力で「ちがーーーう」と揺り戻す力かもしれない。
まあ、専門性を求めて、それっぽさや知識で固めたくて狂ったように「読書」してしまう面もあるけれど、それはそれで、まあいっか。