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もやもやっとしている一部をアウトプット

「目的への抵抗」という本をオーディブルで聴いた。サラサラと流れてしまったけれど、自分が思っていることが整理されたような気がして、モヤっとした違和感の正体をおぼろげにつかめた気がした。それが言語化できないまま熟成中で、めずらしく2回目聴いている。
それでも言語化できる気がしないので、やっぱり普通の書籍で読もうかと思案中。

そもそもこの本に興味を持ったのは「目的」ってものに対する敵対心があるからだった。だからこそ「抵抗」なんてついていたら、興味を持つに決まっている。
「目的に抗する自由」冒頭から、気になる「目的」どころか、大好きな「自由」まで出てきて惹きつけられる。
こんなに面白いと思った一冊なのに、「自分の」言葉で考えたことを表現できないのが情けない。「それな!」ポイントが多すぎるのも整理できない要因かもしれない。いや言い訳だな。考えろ考えろ。

特に印象的だったのは、「生存のみに価値を置く社会」というフレーズだ。
コロナ危機で感じた違和感は、本当にここだった。もちろん「生存」「生きる」「生き抜く」ことは大事だ。そこに異を唱えるつもりは微塵もない。
だけど、それだけじゃないし、そして強要されるものでもない。
政府が推奨する新しい生活様式なるものに、とんでもなく違和感を感じたのは、その「生活様式」自体というよりも、なんでそんなことを言われなきゃいけないの的な違和感だった。
何が「確か」なのか分からない中で、「偉い人」が言っているのだから間違いないだろうって、それを疑うことは「陰謀論」みたいに一括りにされることへの戸惑いがある。

そんなことを言葉にならないなりに反芻していたところで、「方舟を燃やす」を読んだ。

ここでも、「何を信じるのか」という問いがある。
どちらが「正しい」かの争いではない。自分で考えて選ぶしかないのに、「みんな」と同じでないことは排除の対象にもなる。
自分の人生を引き受けることは、他者を排除、攻撃することとは違うのはずなのに、「違う」が恐怖になる。それは、いつでも自分が正しかったと証明してほしい、本当にこれで良かったのか肯定してほしい、そんな思いがあるからだろう。だからこそ「同じ」思いを持った人、同じ選択をした人と一緒にいたいし、心を乱す「違う」人を恐れる。

いくらでも「不安」になれる不確かな世界で、自分の感覚を信じられることが強みになる。それが「頑なさ」の脆さに傾かないように、バランスをとりながら、いつも自分の感覚と相談してよろよろふらふら進むしかないのかもしれない。

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