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分からないし進めない

読書三昧。読み散らかしている。
もともと何冊かを同時並行して読むことが多い。
自宅で読む、外出時に持ち歩く、Audible、寝ながら読む。
途中まで読んで、そのまま放置の本もあれば、時空を超えて読み進める本もある。

すごく読みたくて、「読まねばならぬ」とさえ思った本なのに、一向にページが進まない。
どうして読みたかったのか、その動機も忘れてしまったりするのが厄介だ。

ただいま苦戦中なのは、「ケアの倫理とエンパワメント」

どうにもこうにも頭に入ってこない。
その理由として考えられるのがこの2点。
①前提条件として、登場する文学作品や著者についての知識がないこと。
②重要なキーセンテンスの理解が追いつかないこと。

今回やっと理解できた言葉は、「ネガティヴ・ケイパビリティ」

「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いの中にいられる能力である。

「ケアの倫理とエンパワメント」P018


この本で理解したわけではなく、2年前に読んだ本「ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力」以来、何度も遭遇し、特に最近よく聞くようになったので、やっと身に着いた感覚だ。
私自身の傾向として「言葉」を感覚的に使える程度に「理解する」「腑に落とす」ことに重きを置いている。

だから余計に、読み進められないのかもしれない。
単に理解力の不足、頭悪いだけでもある。

この本で出合った言葉「多孔的な自己」は、まだストンと腑に落ちてこない。
ちなみに「多孔的な自己」とは、たくさん孔(穴、くぼみ)が空いていて、いろんなものに侵入されてしまうという意味らしい。

知らない「言葉」「概念」に常にひっかかってしまい先に進まない上、ざっくりと「意を汲む」ような読み方ができない。

そもそも「ケアの倫理」に興味がありつつ、理解できていないのだ。

こちらも読んだはずだけど、ちっともシナプスさんが繋がっていく気がしない。

ただ、断片的にでも私の興味関心の方向性はこちらなのだと感じるので、しばらくは「蓄積」して「熟成」させていこう。
いつか「ケアの倫理」が説明できるようになる。これを目標の一つに掲げよう。

「なんのために?」という問いが失効するところで、ケアはなされる。こういうひとだから、あるいはこういう目的や必要があって、といった条件つきで世話をしてもらうのではなくて、条件なしにあなたがいるからという、ただそれだけの理由で享ける世話、それがケアなのではないだろうか。

鷲田清一『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』


<ケア>に興味があるというより、簡単には答えがでない、正解はないことを抱えること、つまり「ネガティヴ・ケイパビリティ」を鍛えることに興味があって、そういう仕事をしているのかもしれない。
だから、いっつもモヤモヤしていて、これでいいのかなと思ったり、安直に答えを求めすぎる姿勢に拒否感を示したりしている現状は、結局望み通りなのだ。

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