努力を認めて欲しがったっていいじゃないか
と、思う。切に思う。
別に私が特別努力しているという話じゃなくて、世の中の誰もが努力して、努力して、努力して努力して努力して、社会を回し、家庭を守り、なんとか生きているはずなのに、あまりにも努力を伝えることに不寛容じゃないかと思うわけだ。
例えば、私がアイドルだったとして。何年もの下積みの末華々しくデビューしたら、きっと私の努力はたくさんの人に認められ、賞賛されると思う。
役者だったとして、カメレオン俳優として自我を殺し、ただただ役のために魂を削ってきたと、そしてようやく自分らしい演技を世の中に認めてもらえたのだと、誰かに伝えることができる。
もちろん彼女ら彼らの努力を否定するつもりは毛頭ないし、想像を絶する苦労や、悲しさ、絶望を感じながらも、懸命に努力し続けたからこその栄光なのだろうと思う。
けれど、たとえば私のようなしがない企業ライターだって、ほんのすこしだって私の自我を入れられない記事を、インタビュー内容さえ編集長の意思で捻じ曲げられてしまうような立場の弱い平凡な平社員だって、いつもプライドを持って文章を書いている。お客様に認められ、プロとして食えるまでに、積み重ねた努力がある。
でも、その努力は伝わらない。
読者にという意味でなく、私や私の仕事にまつわる誰にさえも。それが何だと思うかもしれない。私だって、誰かに褒められたくてやっているかと問われたら、違うと答える。
でも、褒められる機会があってもいいとは思う。
違う。別に口に出して「すごいね」「えらいね」と言ってほしいわけじゃない。
ただ、考え抜いてつけたタイトルを鶴の一声で、校了日前日にひっくり返される悔しさを知ってほしい。その裏に確かにあった熱意を感じてほしい。もっと言えば、この世の中に努力のないものはないと、理解してらほしい。互いに「私たちって結構良くやってるよね」と思いあいたい。
仕事柄いろいろな人に会う。
店舗で働く人をロボットみたいに扱う人。大切だと、支えたいと言うくせに下に見ている人。常に疑心暗鬼で、誰もが手を抜いていて、自分以外は不真面目だと信じてやまないひと。
言えないけれど、言ってやりたい。
お前の努力で、お前の今があるように、その人の努力でその人の今がある。そして、お前やその人、この世のすべての人の努力で、こんなにも豊かで平穏な暮らしがあるのだと。日々の当たり前を作っているのは、お前が気づきもしないような些細な瞬間のために努力を重ねた人々のおかげだと。
でも、日本人はすごく謙虚で、正確には謙虚を強いられていて、「私頑張ったんだよ」と他者に伝えるのは難しい。「あの日頑張ってたよ」と他者に伝えてもらう機会を得るのはもっと難しい。
どうしたら良いのかなんてわからないし、私にできることなんてほとんどないけれど、努力を認めて欲しがってもいいともう少したくさんの人が思えば、ちょっとだけ生きやすくなるだろうと思う。
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