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【教育論】時代錯誤とアナクロニズムの意識論
私たちは「時代錯誤」という言葉の意味をどのように用いるか。そのことについて考えるとき、それが私たち自身に向けられることがどれだけあるか考えなければならないように思う。それにあたって私たちが用いる際の「時代錯誤」という言葉について捉えなければならない。
まず第一に、それは何かしらの対象に用いられる時が多い。例えばある広告のフレーズが「時代錯誤である」などといった具合に、自己に向けられた言葉というよりは何かしら自分から切り離したものに対して差し示されることが多い。
第二に、仮にそれが自己内省的に向けられたとして、多くの場合、中年以降のいわゆる”老害”と呼ばれるパーソナリティ性に当たる可能性のある人物内において、つまり比較的歳を取った人の心理における、若い人との関係性内でのペルソナ的対応において起こるということである。要はある程度歳を取った人の、他人との関係によって左右される内省メカニズムである。
第三に、それは対象における過去性に向けられる。「今」と比較してどれほどずれているか、ということが追及されており、ある意味では「今」の絶対視、神聖視でもある。
こうして要素を分類してみたが、そもそもの時代錯誤という言葉の意味について考えなければならない。それでデジタル大辞泉で調べてみたところ、以下のように出てきた。
1.歴史的人物・事件・生活様式などに関して時代の異なるものを混同して考えること。「ーに陥る」
2.人の言動や考え方などが、その時代の傾向にあっていないこと。アナクロニズム。「その考え方はーも甚だしい」
その他として、精選版日本国語大辞典では、以下のようである。
「異なる時代の現象・事件・人物・思考などを、歴史の流れを考慮しないで結びつけて理解する誤り。アナクロニズム。俗には、時代の流れを無視した古くさい考えの意で用いられる。」
また四字熟語を知る辞典では、以下のようである。
「時制、時代の傾向に合わないこと。特に、時代に遅れた古い考えや行動についていう。」
これら三つから総合して考えるに、先述したような「時代錯誤」とは、俗称に変化していった結果できた使用法であり、本来的な意味からは外れていることがわかる。もちろん言葉の意図というのは時代とともに変わっていくものだからそれについて非難することはある意味では「時代錯誤」なのかもしれない。しかし、ことこの言葉「時代錯誤」に関しては本来の意味で用いるべきなのではないかと私は考える。なぜなら、”今”を絶対視している言葉であるはずなのに、それが全くもって学問的な成果としての”今”ではないからである。
Wikipediaには以下のように記載される部分がある。「英語のanachronismeは、主たる意味は日本語の「時代錯誤」と同等であるが、逆向きの意味、つまり遠い過去のものごとを分析する時に、間違えて現代のものごとを持ち込んでしまうような失敗も指している。歴史学では「アナクロニズム」は、遠い昔の社会や出来事を分析する時に、近年登場したものを当時普遍的なものであるかのように誤り、それを土台に分析したり論じたりしてしまう分析法のことである。それは、当時存在していなかったものを基準にしているわけであり、「存在しないものを基準に判断する」ということは、過去の時代のことを分析する場合でも(現代のことを分析する場合と同様に)誤ったことである。」
つまり現代の歴史学、加えて系譜学が明らかにしたのは、時代が常に発展し続けていて今があらゆる並行世界の中で最も良い状況なのだという、最善論的発展史観の否定であるということである。そしてそれは、共時的な世界の地平、つまり全世界における文化の相対性だけでなく、過去の時間軸において発生した文化それぞれの相対性も示す。
ところが現代の義務教育課程内における歴史は、便宜性からか国の権威強化からかはさておき、ちょうどスペンサーの社会進化論のような図形とともにおおよそ発展史観的に教えられる。これこそ”今”から外れる自家撞着的な「時代錯誤」なのではないか。
これらのことを踏まえると、私たちは本来の時代錯誤の意をもって内省すべきでないか、という結論に至る。しかしながら現行使用されている「時代錯誤」では意識の表面化および沈潜が生じにくく、反面意味内容の揺れも生じさせる。であればこそ、カタカナ語の類義語「アナクロニズム」を意識的に用いるべきでないか、と思う。言葉というのは、使用すればするほど言葉自体に性格が生じてきて、煽動的で比喩的な表現になりやすい。それでは自己内省にはなりづらい。そうではなくて、無骨なこのカタカナ語を用いることで私たちは今一度、時代錯誤の眼差しを向けるべきではないか。そうしてこそ、「文化」というものの理解、あるいは理解できなさを敵愾心を持つことなくあるがままの状態で自分の心の中に居させることができるのではないだろうか。
※写真は以下より引用。発展史観について大きな影響を与えたヘーゲルが講義を行う姿の写真です。