感謝を伝える〜信頼できる存在
昨年11月、自著となる『学んで伝える』を出版しました。
出来上がった本は、お世話になった方々に言葉を添えて送ったり、時間がある時に会いに伺って手渡ししたりしています。
海野俊彦さん(いつも海野先生と呼んでいました)もその1人ですが、昨年11月下旬、お電話をいただきましたが、電話口に出られたのは奥様でした。
その数日前に海野先生は倒れたとのことで、代わりに連絡をくださって、
『…そんな状況なので、先に私が読ませてもらったのよ。』
『そうだったんですね…じゃあ、面会ができる状態になったら伺いますね。』
そんな会話を奥様として、電話を切りました。
しかしその翌日、容態が急変して海野先生は旅立たれました。
私は感謝の気持ちを直接伝えることができませんでした。
現役を引退し、上武大学で指導者としてスタートすることが決まった時、私には群馬で頼れるのは妻の家族やわずかな知り合いくらいしかいませんでした。
その時、義兄(妻のお姉さんの夫)が、
『それなら海野先生を紹介してあげるよ。オレもすごくお世話になった人で、信頼できる人だよ。きっと相談に乗ってくれると思うよ。』
そう言って、行動の早い義兄はその場ですぐに海野先生に電話をしてくれて、少し近況を話した後、私に代わってくれました。
『あっ、どうも。今度、上武大学で駅伝部監督になります花田です。どうぞよろしくお願い致します。』
『あー、どうも。海野です。ノリオくんの親戚なんだって?』
『あっ、はい。妻のお姉さんの旦那さんで。』
『そうですか…まあ、電話ではなんだから、また会った時にいろいろと話しましょう。』
お会いしたこともない者同士で、そんな短い会話で電話が終わったように記憶をしています。
最初にお会いした時は義兄と一緒でしたが、義兄がよく怒られたと聞いていたので、私もそんな先入観を持っていました。
しかし、話を聞いてみると、手のかかった義兄の面倒をよく見てくださったようで(義兄さん、失礼な表現となりすみません)、父性愛に満ちた方だと感じました。
海野先生は、上武大学伊勢崎キャンパスのすぐ近くに住んでおられて、それからは時々、グラウンドに顔を出してくださり、練習を見ながらお話するようになりました。
現役時代の私は、瀬古さんが引いてくれたレールをただ走っていただけだったのかもしれません。
いざ自分が瀬古さんと同じ指導者の立場になってみると、わからないことばかりでした。
そのうち、海野先生に会うと、
「こんなことがあるのですが、どうしたものでしょうか。」
と私は相談するようになりました。
そうやって海野先生との距離も徐々に近くなって行って、年に数回ですが、私が駅伝部の合宿所に泊まるタイミングで、食事に誘っていただいたりもするようになりました。
一緒に飲みに出かけると、最後は海野先生のご自宅に伺うことが多かったのですが、深夜に近い時間帯で、奥様にはたいへんご迷惑をおかけしていたことと思います。
『なんか、食べるものないんかい?』
海野先生がそう言うと、ハイハイと言って、すぐに奥様が皮を剥いたゆで卵を7、8個もお椀に入れて持って来られて驚きました。
『こんなこともあるんじゃないかと思って。』
さらっとおっしゃる奥様に感激して、なんて素敵なご夫婦だと思ったものです。すごくおいしくて、3個は食べたような気がします。
上武大学が箱根駅伝に初出場を決めた2008年10月の箱根駅伝予選会の時のことも忘れられません。
海野先生は、私がデザインした黒と銀の上武大学の旗を持って、立川昭和記念公園で応援してくださいました。
初出場が決まった歓喜の後、海野先生にお会いすると、
『花田先生、本当によかったねぇ。オレも日体大出身なのに、上武大の旗持って応援してたから、仲間に会って気まずかったよ。でもこれからも花田先生を応援するよ。』
と苦笑いしながら声をかけてくださいました。
箱根駅伝初出場が決まる2ヶ月前の夏に、上武大学駅伝部後援会が立ち上がりましたが、その中心で動いてくださったのも海野先生でした。
顔の広い海野先生が、地域のいろいろな方々に声をかけてくださいました。
《お金を集めるのが目的ではなく、上武大が箱根駅伝に出た時に、それをきっかけに地域の交流が広がるような会にしたい》
という私の考えにも海野先生は賛同してくださり、1口あたりの会費は安くするように調整してくださり、200人近い方々が後援会に入ってくださいました。
箱根駅伝当日も、その中から多くの方々が現地に応援に来てくださいましたが、そこでもやはり海野先生が先頭に立って、上武大の旗を手に皆さんを導いてくださいました。
2015年の末、私が上武大を辞めることを決意し相談に行くと、
『花田先生がいなくなると寂しくなるなぁ…でも、それでいいと思うよ。花田先生ならきっと大丈夫だよ。』
そう言って、優しく送り出してくださいました。
上武大を辞めた後も、何か迷った時には連絡をしたり、急にご自宅に伺ったりもして、話を聞いてもらうことがありました。
GMOインターネットグループの監督を辞めて、母校・早稲田大学で指導することが決まった時にも、少し体調を崩されていましたが、会食の席を設けてくださり、
『花田先生、本当によかったなぁ〜。』
と自分のことのように喜んでくださいました。
瀬古さんが私にとって東京の父であるならば、海野先生はまさしく私にとっての群馬の父でした。
直接お会いして、まだまだお話したいことがたくさんありました。
もうあの優しい笑顔の海野先生に会えないと思うと、すごく寂しいです。
海野先生、これからも見守っていてください。
心よりご冥福をお祈りいたします。