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「永い言い訳」愛しにくい、現代

「すばらしき世界」が話題の西川美和監督。この映画についてもっと解りたくて、監督の前作を観直した。結局、こちらでも世界が素晴らしいのかどうかはぐらかされてしまう。物事の単純化が流行りがちないま、簡単に白黒つけない誠実さに触れること。「すばらしき世界」に比べて身近なテーマ。現代人の抱えるしょうもなさと光が同時進行する。
※ネタバレレビューです。ご注意ください。

2016年/日本
2021.3.28現在 Amazonプライム視聴可

○さくっとこんな話

人気作家でテレビタレントとしても活躍中の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は妻夏子との間に子供を持たず、最近は倦怠期。愛人をつくり不倫していたが、そんな折夏子が交通事故で亡くなってしまう。世間に対し悲劇のヒーローを演じるが、実際はまったく悲しむことができない。家事を担っていた夏子不在の生活は乱れ、愛人には愛想を尽かされ、仕事も行き詰まる。途方に暮れるなか、同じ事故で妻を亡くした男とその一家に出会い、ともに時間を過ごすようになる。妻の死を全身全霊で悲しむ大宮陽一、幼くして母親を亡くした2歳のあかり、小学6年生の真平と触れ合うなかで幸夫が見たものとは。

○ペルソナ津村啓と幸夫の狭間で

衣笠幸夫が作り上げた「津村啓」は現代の日本社会を乗り切るために、よく出来すぎている。人気小説家としてテレビでも売れっ子で、お洒落なレストランやバーを知っていて、ワインやレコードの知識も豊富、女性相手の喋りも饒舌で愛人もいる。世間からしたら完全なる「勝ち組」であり「成功者」。しかしこの映画ではその華やかさとともに、しょうもなさが表裏一体で描かれる。輝かしいはずの彼の姿は観客の目に滑稽で虚無的にうつる。

彼のことを本名の「幸夫くん」と呼ぶ夏子に対し、彼は鬱陶しがりつつも頭があがらない。小説家になる前の自分を知っている夏子の存在のせいで、津村啓と完全に一体化できずにいるのだ。夏子の死をもってやっと津村啓になりきれるはずだったが、彼は小説家。そうして楽になったところで小説が書けないというジレンマに陥ってしまう。逆に言えば、幸夫と彼を繋ぎ止めてくれていた夏子がいなくなったことで、彼自身で幸夫を探さねばならなくなったのだ。

幸夫探しのために彼が選んだのは大宮家との交流だった。器用な彼は大宮家のなかですべきことを見出し、すぐに溶け込んでいく。特に長男でしっかり者の真平とは相性がよかった。幼いながらに自分のことよりも「すべきこと」を優先する運命をしょってしまった真平は、世間から求められる像にすぐ染まる幸夫と本質的に似ていたのだ。2人は奥深くで苦しみを共感し合う仲になる。

これといったペルソナを持たず常に自分であり続ける大宮陽一や子供たちとの交流を経て、幸夫は変わっていく。一家の女房役を担う内、世間で成功するための所作しかできなかった津村啓が剥がれ落ち、丁寧で繊細、子供達の目線で一緒に世界を見るという彼の別の一面が出てくる。その過程は微笑ましくあたたかな印象で観客を安堵させる。

幸夫くんが「あたたかな心」を取り戻してひと安心。ほっ。めでたしめでたし。
普通の映画ならこれで2時間終わるのでは。しかし西川美和監督はここで逃してくれない。この状況を津村啓のマネージャーに「逃げている」と批判され、物語の後半が始まる。

○ 罪と罰、懺悔の物語として

彼に津村啓として、きちんと「妻を事故で亡くした悲劇の小説家」として仕事をさせたいマネージャーはこの状況を良しとせず言い放つ。

「だって先生それは逃避でしょ。」
「子育てって免罪符じゃないすか。男にとって。みんな帳消しにされてく気がしますもん。自分が最低なバカでクズだってことも、なにもかも忘れて。」

手に入れた世界が他者からの目線が入ることで再び揺らぎ始める。マネージャーの想いに相反するように、彼はますますあかりや真平にすがるようになっていく。2人の存在により「守るものがあるという幸せ」を思い知った彼は新たに夏子を愛しはじめる。

こうしてやっと罪を罪だと感じる準備が整う。津村啓という仮面のもとでは罪すら感じる感受性も奪われていたのだ。しかし、罪を自覚するということは罰も意識しはじめるということ。無意識のうちか幸夫は自らに罰を呼び寄せはじめる。

本音を話す意気込みをもって久々にテレビ出演の仕事を受けることにするが、大惨事を巻き起こしてしまう。子供たちのリアルな感情に向き合う日々を送った彼は、大人が作り上げるつくり物にうまく適応できなくなってしまっていたのだ。当然のように偽物を作り込んでいく仕事仲間とは会話すらままならなくなっており、その蚊帳の外っぷりには見ていて痛々しい。

さらに大宮家にも変化が訪れる。自宅で保育サービスを行う女性が現れ、あかりを預かるというのだ。彼はこの女性に対し過剰に反応する。吃音症で一見地味なこの女性は、人前で話すことを職業に選び周囲から先生と呼ばれている。幸夫に似ている。彼からペルソナをすべて剥ぎ取って残るのは、こんな人物像なのかもしれない。地味な雰囲気で、決められたことしか上手く話せない。自分の想いを話そうとすると吃ってしまうがそれでも注目されていたい。彼からするとペルソナをうまく形成できていない、みくびる対象のはずの彼女。その彼女が自分のポジションを脅かしているーそれも、彼が思うに、彼女が女だからという理由で。そう感じた彼は嫉妬も混じった凄まじい敵意を彼女に向け、大宮家との交流を自ら絶ってしまう。

罰に罰を与えられ、孤独に陥った彼は告白する。陽一相手に夏子に犯した罪をすべてぶちまける。それはそれは、懺悔の心からくる悲痛な叫び。

一通りの罰と懺悔を経て、その時が訪れる。幸夫不在の大宮家はバランスが崩れはじめていた。もう彼の存在はなににも変えがたくなっていたのだ。特に真平にとって。そのことに幸夫自身が気づいた時、幸夫の旅は終りを迎える。自分が自分であることの意義が満たされてやっと、自分を超えてただ真っ直ぐに他者を愛することを知る。旅の終わりが近づくなか、真平と交わす言葉が印象的だ。

「自分を大切に想ってくれる人をみくびったり貶めたりしちゃいけない。僕のように愛していいはずの人が誰もいない人生になる。」

旅を終えた彼は「永い言い訳」という小説を一本書き上げる。言い訳とは、何に対してのものなのか…。

小説は見事賞を受賞し、疎遠になっていた仕事仲間にも囲まれ祝福される。津村啓としてテレビでは相手にされなくなっていたが、小説家である彼は良い小説を書けばすべてが解決するのだ。夏子との間に子供こそいなかったものの、彼女は彼に小説を産ませた。そしてそれは夏子がいなくなっても、幸夫を幸夫たらしめ、孤独から守るだろう。そういう風に、2人はきちんと愛し合っていたのだ。

○愛する男に女はなにができるのか

この映画はずっと「愛するとはなにか?」を追い続ける。罪と奥深く繋がっているようにも感じたし、いろいろな側面があるようだが、ふたつは間違いないだろう。献身的労働と寄り添う心。積み重ねられる細々とした子供の世話の描写からそれだけは納得せざるを得ない。

それにしても津村啓というキャラクターがバブルのようにはじけてなくなっていくのが恐ろしくて痛快でもある。映画がはじまってしばらく、津村啓に対して「そのペルソナ要る?!」と何度も思った。ものの見事に、愛の前に仮面は砕け散った。

はっきりとは顕れていないが、この映画には男性の不穏さのようなものがところどころに溢れている。子育てを免罪符と表現するマネージャー。仮面のもとに大成功を収めていた津村啓。父親という役割を働くことでしか担えない陽一。

前回の「あのこは貴族」のレビューで少し触れた「男性の生きづらさ」に、まさかこんなところで出会っているかもしれない。もしかして。
他者を愛すること。献身の喜び。それが人間にもたらす効用は大きい。そこに至るまでにまわり道をしがちなのが男性なのかもしれない(少なくともこの映画を通して見た場合)。
そしてそれは、妻の夏子には導くことのできなかった領域である。夏子は幸夫に時間や労働を捧げ、小説を産ませるほどの献身を働いていた。冒頭の髪を切るシーンでも彼を慈しむ様子が見て取れる。揺らいだ時期もあっただろうが、愛する喜びを彼女は手に入れていたはずだ。なぜ幸夫だけがこんなに旅をせねばならなかったのか?夏子が消えねばこれはなし得なかったのか?

そうだとすると、このテーマは女性であるわたしにもずっしりとのしかかってくる。
あらゆる人にとって(今作においては男性にとって)心が満たされる愛の領域にいくのを阻むのは、何なのか。そんなことを考えてみるも、全然わからず終わるのでした。男性の皆さんはこの映画のどんなところに心を揺さぶられてるのかなぁ…。ぜひご意見をうかがいたいです。

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