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「あのこは貴族」息苦しさの源泉を探しに行く

「あのこは貴族」を観てきた。2回も。
穏やかに上品に行われる現実への抵抗。気品とは。運命とは。社会とは。観た人の背中をそっと押してくれる、後味スッキリのさわやかで優しい映画。
シスターフッドがキーワードだけど、対男性のような簡単な二項対立ではない、深味濃密な作品なので、ぜひ男性にも。
※ ネタバレレビューです。ご注意ください。

○さくっとこんな話

東京に存在する中心部・外部(階層)について両階層、特に女性の目線から描かれる。
扱われるのは、がっちりと築き上げられた社会構造から逃れられない個人、という非常にシビアで現実的な題材なのに、どこかファンタジックであたたかくさわやか。え、こんなの見たことない…!と激しく動揺し、帰り道、街の灯をなぞって走って追いかけました…。
(なんですか、これは、なんなんですかこれはー!)

松濤の実家で家事手伝いと結婚相手探しに勤しむお嬢様、華子。
一方美紀は、慶応大学進学をきっかけに富山から上京したものの、親の仕事の都合で大学を中退。水商売で生計を立てる期間を経て、いまは昼の仕事に就き東京で暮らしている。
そんなふたりが幸一郎という超良家の子息を介して出会う物語。

○新しい出会い方

ふたりの出会いのシーンがなんとも衝撃的。大修羅場になる、もしくは共謀関係になり最高に盛り上がる、そのどちらかになる場面のはずなのに、この映画は違う。

親友の婚約者が他の女性と関係を持っていると知ったとき、わたしだったらどうするだろう。たしかに、なにもせぬ訳にはいかない。その気持ちはわかるけど、華子の親友、逸子の出した答えには面食らった。当事者の女性ふたりを引き合わせたのだ。
呼ばれた女は聞く。「わたしを婚約者に会わせてどうしたいの?目的は?」
穏やかに逸子は答える。「ほら、幸一郎さんみたいなタイプの男性ってさ、女性問題が絶対あるじゃない。私の父もそうだったの。よそに女の人も子供もたくさんいてね、…だからね、わたしは自立していつでも別れられる自分でいたいんだ。」
さらりと自分のことをさらけ出しながら話す逸子に、美紀はすぐに共鳴する。「いつでも別れられる自分って、いいね。
…本当に、全然私のこと責めないんだね。」

ここから逸子の名言が止まらない。「ふたりを対決させようとかじゃないの。」「世の中には、女同士を分断する価値観みたいなものが、たくさんまかり通ってるでしょ。」「年配女性や独身女性を分けて考えたり、ママ友がどうのって煽ったり。わたしそういうの嫌なの。」

美紀は逸子の意図をすぐ理解する。このタイプの虚しさや悲しみについて、お互いに知りすぎていたからこそ。
その後もうひとりの当事者、婚約者の華子もやって来て、3人でとても穏やかに話す。似た苦しみを秘めながら、優しく言葉を交わし合う空間に胸が締め付けられた。

煽りや横行する価値基準を横に置いて、当事者同士で向き合って自分たちの最適解を出す。こんなにも当たり前のことが、私たちはできなくなってしまった。すごくファンタジックなシーンに感じられて、それがとても悲しかった。

○男と出会って雨が降り始める

雨を降らせる男との出会いがこの物語の根っこになる。華子は婚約者として、美紀は都合のいい女として、雨男と関係する。雨は、格差や男尊女卑など現代日本の抱える様々な問題のようにみえる。
出会う前から相手の序列を見立て、取り扱い方を決めて話しかけてくる雨男・幸一郎。真っさらであればあるほどそれに従うしかなく、彼女たちは舞い上がったり傷ついたりする。おそらく彼はそういう関係の築き方しか知らない。幸一郎を見ていると、男性も育ちや年齢・体力やルックスで分断され、それぞれの役割を押し付けられてきたのだと、よくわかる。
女性の目線で描かれながら、男性のしんどさも垣間見えるのがこの映画の素敵なところ。深堀りはされないけれど、雨を司る側の苦しみもしっかりと滲んでいて、フェアな描き方により物語は一層現実味を帯びる。シスターフッド映画でありながら、決して対男性の構図ではない。彼女たち(幸一郎も含めて)が立ち向かうのはもっと大きくて複雑なものだ。

幸一郎が華子に本音をぽろっと話す場面がある。「夢なんかないよ。まともに家の跡を継ぎたいだけ。それは夢とかじゃなくて、そう育てられたから。華子が俺と結婚したのと一緒だよ。」きちんと恋をして結婚したつもりだった華子には到底受け入れられなかったが、幸一郎は本当に、決められた役割を担う同志として華子をかけがえなく思っていたのだろう。

○「シスターフッド」だけでは済ませられない

美紀が華子に言う。「田舎でもね、街に出なきゃ親の人生トレースしてる人ばっかりだよ。そっちの世界と似てるかもね。」
華子は曖昧にうなずくが、東京の中心にいる人はそこからどこにも行けない。出て行く街がない分、より過酷なのかもしれない。
ラスト、華子はその過酷な道を選ぶ。「育ち」から逸脱する痛みと喜びに打たれる彼女の姿は清々しい。これは逸子という親友や、美紀との出会いがなければ起こり得なかったことで、この映画は確実に彼女たちの解放を喜んだシスターフッド賛歌であることは間違いない。

しかし過剰なシスターフッドは新たな分断を招くことも、この映画は示唆している。物事はそんなに単純ではないのだと観終わった時納得させられている。静かに強く自分の道を歩むこと、というヒントは与えてくれるが、この作品を観終えたわたしたちは、さて、どうすればよいのだろうか。

橋を渡る華子が、向こう側にいるギャル達と手を振り合うシーンが印象的で、自分の女子校時代を懐かしく思い出した。育ちや好きなものが違っても、お互いを敬愛することができたあの頃。ギャルもオタクも運動部の子も、みんな仲良くやっていた。いつの間にか、一辺倒の価値基準でものを話す子が増えて、序列をまくしたてるものだから、苦しくて一緒にいられなくなった。みんなどんどん離れ離れになっていった。
高校を卒業してからだ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう…?

○苦しみを生み出すものをつきとめたい

昨日は国際女性デーとのことで、もっと踏み込んで言葉を選ばず書いてしまうと、この映画に出てくる多くの女性たちは、時に家系を絶やさないための道具として、時に快楽を得るための消耗品として、自分の性の現実を受け入れて明るく過ごしている。
彼女らが笑いながら話すことはどれも日常的で自然、よくみる風景。なのに客観的に改めて見せられると強烈で胸に刺さる。

「子供産める年齢までに結婚できるの。」
「みんな落下傘部隊みたいに結婚してくけど…。」
「家で奥さん遊ばせてると思われたくないんじゃない。」
「でも本気で働かれるのは嫌なんでしょ。」
「そうそう家のことできる程度に働いてほしいんだよね。」
「ニコニコして愛想振りまいて空気を循環させてほしいんじゃない?女をサーキュレーターかなにかだと思ってるのかな。」
「定年後の最大の心配が娘が結婚してないことなんて気楽だよね。こっちは一生暮らしていけるかもわからないのに。」
「パパが急に一万円くれてね、これでビキニ買って海行って男見つけて来いだって。」

中心部でも外部でも、この映画で描かれる女性の扱われ方は似たり寄ったりだ。どう受け入れ、こなすか、もしくはそれ(どれ?)と一体化して心からやり切るか。

繰り返すけど男性が悪いなんて思わない。彼等も育ちや年齢、体力やルックスで分断され、それぞれの役割を押し付けられてきたのだ。(なにによって?)そういう繋がり方がまるで公用語のように根を張っていて、役割を引き受ける・与えるという関係の築き方しか、いま、選択肢がないのだと思う。

この苦しみに対してどうしたらいいのかわからない。例えばいままで女性が引き受けていた役割を、誰がやるのか、なくてもまわるのか。その世界はどんなものなのか。わからないことだらけ。
まずは男性のしんどさをもっと知りたいと思った。女性は徐々にくちを開き始めた。男性の話も観たい、聞きたい。そこにまたヒントがあるのではないか、というかすかな希望。

最近みた映画だと「すばらしき世界」もそうだったけど、社会としっかり結びついている映画は歯応えがすごいし、いてもたってもいられなくなってくる。
現実へ拡張されるこの想いをどうやって繋いでいこう。観終えた後、ひとりひとりに手渡されるものはなかなか重い。

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