なぜ、私は爆死しなかったのか?~明日10億円あたるかも~
常日頃思うのだが、人はどれだけ恥ずかしい目や辛い目にあえば、爆死するのだろうか。正直、私は人生において、爆死したかった&爆死しそうな場面が沢山あった。てんこもりである。しかし、残念ながらどれだけ辛くとも苦しくとも、どれだけ恥ずかしくとも、爆ぜることはなかった。漫画のように、凄まじい音を立てて豪快に、「ちゅどーん」や、「ずばばばばごーん」と滅しても、おかしくなかったように思う。
かの有名な太宰氏も言ってたじゃないか、「恥の多い生涯を送って来ました」と。
いやいやしかし待ってほしい、私も中々なのでぜひ皆さんに聞いてほしい。そして、なぜ結局のところ、私が爆死しなかったのかを今一度人生を振り返り、思考したい。
① 職場でゴミ箱にケツがホールインワン、そして・・・事件
忘れもしない、あれは24歳の時。私は学生の時にバイトはしなかったので、初めての職場だった。勤め始めて5年目、そう、いろいろ慣れてきた時期である。あの日は、後から思えばむかつくほど陽気の良い日で、いっそ雨でも降ってくれていれば、あの最悪の場面を回避できたかもしれない。雨で濡れた地面で足を滑らせ着地地点がズレたとか、だったらよかった。本当に。他愛もない話を、上司と話をしていた時だった、ふとした話題に、見てくださいと、書類だかを取りに動いた瞬間、私は何もないところでコケてしまった。私はよくコケてしまう。そのたびに「なんでもないっすよ」「何かありましたっけ?」と清々しい顔ですっとぼけてノソノソと立ち上がるのだが、その時は、着地した場所は床ではなく、
そう、ゴミ箱だった
なぜ、・・・なぜ、あの場所に、私のケツが丁度収まる場所にあったのか。私はあの後小一時間、エヴァンゲリオンの碇ゲンドウが如く、ゴミ箱を問い詰めて、項垂れた。わかっている、ゴミ箱は悪くない。そこに普段置いているのも、何もないところで転んだのも、自分なのだ。わかってはいてもゴミ箱を責めた。いくらアニメや漫画が好きだからって、こんなことってあるの?!夢なら覚めてお願い!!!という願い空しく、ズボンと音を立ててケツがゴミ箱にホールインワンした事実に変わりがなかった。起きてしまったことは、時間を戻さない限り変わりようがない。広いこの世界において、あの瞬間、私と同じ目に合った人がいただろうか?否、いない。飛行機でお客様の中にどなたかお医者いらっしゃいませんか?からの挙手という場面に遭遇する確率よりも低いと思う。もし同じような境遇に合った人が居たとしたら、産みわかれた私の双子の姉とか妹とかそのレベルである。とにかく居ない、限りなく0に等しいということだ。話を戻そう。
私は相当、慌てた。
慌てて、慌てて・・・力を、込めたんだろうなぁ、腹に。
お腹に、力を籠めたら、そう、
屁が出た。
もうもう、顔から火が出るほど恥ずかしかった。上司(30代ぐらいの男性上司)の前で、転んだだけでも恥ずかしいのに、ゴミ箱にホールインワンの挙句の果てに屁が出たのだ。聞こえてなければいいと思ったけど、ほぼ空のゴミ箱(筒状)にケツを入れながらの放屁に、否が応にもよく聞こえたであろうから、あれ、絶対聞こえてた!!!!
ほんとに、むしろ、ごめんなさい、こんな音聞かせて!!!
あの後、どうしたのか、よく覚えていない。「すみません」とか「申し訳ありません」と消え入りそうな声で、謝ったような気がする。ただ覚えているのは、上司が優しくて「大丈夫ですか!?」「怪我無かった!?」と駆け寄って、身体を起こしてくれた。怪我よりもむしろ心配なのは私の精神と、体重○kgを不本意ながらも受け止めてくれたプラスチック製のゴミ箱だったが、必死に「大丈夫です、大丈夫です」と連呼したように思う。
私はあの時ほど爆死したいときはなかった。木っ端みじんになって、骨は海に巻いてほしかった。しかし、24歳の若さで、死因が、「職場でゴミ箱にケツがホールインワン、その上、屁をこいて恥ずか死ぬ」とか切なすぎる。まだ嫁入り前なのに・・・。
以上が、私の転びまくった人生において、ワースト3に入るぐらいの爆死したかったエピソードだ。他にも道の溝に落ちて起きれなくなったとか、家のベットと壁の間に挟まったや、柱にぶつかったら時計が落ちてきて頭に直撃など、転倒を理由に起きてしまった事件は多々あるが、職場でゴミ箱にケツが(略)が一番の酷いエピソードなので代表してお届けした。言っておくがこれは軽いジャブである。
② 恐怖!!中学2年生、永遠に解けないトラウマ、ベル着の呪い!!
ベル着を皆さんご存じだろうか。ベルとは、学生時代に授業の開始と終了を教える鐘の音のチャイム音のことで、着とは着席のこと。つまり「ベル着」とは、授業の開始には必ず席に着く行動のことである。これをクラス対抗で競っていた週間があり、その名も「ベル着週間」。この週間の間は何があろうともベルが鳴り終わるまでに着席しなくてはならないという恐怖の週間だった。ある男子は、ベル着が間に合わないと、慌ててショートカットで教室の下の窓から入こみ、席に着いたり、トイレは素早く済ませることを心掛けたり、ベルが鳴ると走って席に着いたり、クラス一団となってベル着週間に挑んでいた。
今でも覚えているが、クラスの委員長が集計をしていて、ベル着できなかった人数を表に書き入れていくスタイルだった。毎日0が連なり、このままだったら、オール0で優勝だね、と皆喜んでいた。斯く言う私も、トイレは早めに済ませ、なるべく移動しないように努めていたのだが、なにぶん、移動が遅い。どんなに急いでも、人より歩幅は狭いし、スピードは劣ってしまう。休み時間の途中にトイレに行きたくなって、次の授業時間を考えても我慢はできなかった。最悪の事態を招いてしまうことは、なんとしても避けなければならない。意を決して、行動したはいいが、案の定、ベルが鳴り終わるまでには座れなかった。本当に、ほんとうに僅差だった。まだ鐘の余韻が残っているぐらいであったが、クラスメイトの判定は厳しかった。全員が一斉に私を見て、
「ええええーーーーーーーーーーーーー!?」
と怒りを露わにした。みんなで頑張っていたイベントだったので、その怒りは最もだった。多感な中学生時代、あれは辛かった。「なんだよ」「せっかくがんばっていたのに」「信じられない」等の言葉が飛び交う。本当に、私も信じられない・・・。記録0人を更新だったのに、表には「1」という数字が刻まれてしまった。その瞬間、クラスの優勝はなくなったのだ。
この時も私はいっそ爆発したかった。盛大な音を立てて「お母さんごめん!」とドラゴン○ールの餃子よろしく、爆ぜて木っ端みじんになって、誰からの記憶にも残らずに、盛大な音とともに消え去りたかった。でも、翌日も私は普通に学校に通った。学校に通うことは私の義務であり、喜びでもあったからだ。嫌なことも多々あったが、学びたくても学べない人を見てきた私にとって、学校に行かないという選択肢はなかった。嫌な日もあるが、良い日もある。がんばろうと通っていたように思う。
③ 人生はじめてのいじめ事案
10人中、1人ぐらいはいじめにあったことがある人がいるのではないだろうか。もしくは、いじめとまではいかなくても、何人かのグループにおいて、自分だけ嫌な思いをした、という経験をした人は、誰だってあるとは思う。私が「いじめ」と銘打つのは、ちょっとした言葉が原因で、その後、殴る蹴るの暴力を受けた、というものだ。小学5年生の家庭科の授業の際に、お米を炊く授業があり、その際にやり取りした言葉が、相手の反感を買ってしまった、ということだったように思う。それをきっかけに、先生の居ない休み時間などの時に私は相手から暴力受けるようになった。私は殴られると、逃がれられず床に倒れてしまい、あとはダンゴムシのようにうずくまるしかなかった。床に転がったら、次は蹴りが来るとわかっていたからだ。いつも泣きはしなかった。でも、最後に殴られたあの日は、1発目で椅子から転げ落ちてしまった。状況を判断するために、透かさず顔を上げると、皆が私を椅子に着席しながら見ていた。
その時、とても悲しくなったのだ。
みんな見ているのに、知っているのに、今も、今までも、まるで人ごとのように、テレビか漫画を観るかのように私をただ見ているだけの視線が、とてもとても辛かった。誰からも助けてはもらえない。自分だけが理不尽な暴力を受けている。私は、ワーッ!!と初めて学校で大声で泣いた。そうしたら、その日、たまたま早く迎えに来ていた母が、教室に飛び込んできた。事態は明るみになり、その後は、教員を交えて双方話し合いの末、相手からの謝罪を受けた。私自身は手術を控えていたので、そのままフェードアウトで、病院の中にある学校に転校になった。相手も、私が居なくなった後、しばらくして転校していったらしい。
あの時代、私は誰かに殴られたり蹴られたりしていたことが母にばれたら、大事になってしまう!心配はかけたくない!という一心で、誰にも言えはしなかったが、これは大いに不正解だったように思う。もし、今、私が某探偵のコナ○のように、小学生に戻れて同じ境遇にあったのなら、間違いなく、殴られた時点で、
「いてええええ骨が折れたああああああ!!先生ェエエエエ先生えええええ!!!!」
と当たり屋のごとく床を転げまわって医者に診断書を書いてもらったうえで大事にすると思う。YES。事なきを得る、を心掛けることは良いが、何事も許容範囲というものがあり、子供には限界がある。たとえ自分の言動がきっかけであったとしても、床に転がるほど殴られたのなら、大事にして然るべきだった、なぁ。(遠い目)
④ 保育園に入れてもらえない問題
普通、保育園や幼稚園は、家から近い場所の学校区内に行かれる方が多いと思う。今でこそ、待機児童が多く、保育園に入れない!!などあるかもしれないが、昔は近所の園に通う子がほとんどだった。しかし、私の場合は、住んでいる区を超えて、車で往復50分の幼稚園に通っていた。なぜなら、近くの保育園に軒並み「前例がない」「受け入れが難しい」と入園を断れたからだ。
理由は、私が2歳になっても、全く歩きはじめなかったからだ。両親に病院に連れていかれたが、紹介された大学病院に行って検査をしてもらっても、原因ははっきりせず、入院やリハビリこそ始めたが、状況は様子見だった。おそらく出産時が原因だと思うが、あくまで「おそらく」――、というのは、母が出産した産院の医者を訴えていないからわからないのだ。
みんなは入れるのに、私だけ入れない・・・人生僅か3歳で抜け者にされる私。とてつもなく恥ずかしい。よく爆死しなかったと褒めたい。たぶん、何もわかってなかった。だって3歳。保育園に入れない!?そんなことある?そう、いまではない。ご安心ください。今は立派な制度があり、市や県から人員が派遣されるので、私のような療養児は普通の保育園に入れることをここに付け加えたい。
さて、現実に突き当たり、大いに母は凹んだ。我が子の先行きを心配し始めた。そして役所で励まされる。
「お母さん、今ががんばりどころです。〇○ちゃんは知能に遅れはありません。ここであきらめて養護施設に入れるのは簡単ですが、健常児と一緒に幼児の時点から学ばせることが大事です。○○ちゃんの教育にもいいし、それに小学校に上がるときに、普通の園で過ごしたということが次につながる。」
みたいなことを言われたらしい。その後、無事、母は私を受け入れてくれる幼稚園を見つけた。自力で歩いていけないので、送り迎えは常に母の車だった。幼稚園だけでなく、その後、小中高、専門学校の途中まで、私が車の免許を取り、手動運転できる改造車を購入するまでの間、18年間、雨の日も風の日も雪の日も、学校、病院、他、どこへ行くにも両親が、主にとりわけ母が送り迎えをしてくれた。当時は四六時中親と一緒というのは思春期もあって、なんとも気恥ずかしく、反抗したことも勿論あった。(反抗したとしてもどうしようもないのだが。)今思えば、ものすごい労力である。平日は朝・夕と私の送り迎えをしなければならないので、母が仕事をするとすれば夜しかなく、主にお惣菜や梱包の仕事を夜中や朝早くにしていた。ちなみに私には2人の弟がいる。私という障がい児と他の兄弟の育児と、家事、仕事をこなしていたのだから、母はすごかったと思う。
母ばかりの話をしたが、父も私に対してとても良い父親だ。ちょっと、いや、だいぶ?ギャンブルと女好きの父で、正直夫としてはどうかと思う時もあったが、今はだいぶ落ち着いた。私は父のことも大好きだ。幼い頃、父が長期出張となれば、寂しくて寂しくて、自家中毒とういう子供特有の病気(ストレスが原因で心因性の体の不調、嘔吐等が起こる病気)を起こすほどだった。そんな父は、夜のトイレの付き添いを、私が小学生6年生ぐらいまで続けた。どんなに夜遅くとも、「おとうさーーん、おしっこー!」と大声で呼べば、父は目を覚まして私を抱っこし、トイレまで連れて行ってくれた。母がお迎えに行けないときは、父がしたし、母の代わりに父がご飯を作ることもあった。今でこそ、男性が育児に協力的なのはもはや当たり前の時代だが、当時はお父さんが料理をしてくれる家は少なかったように思う。父の父、私の父方の祖父は全国の料亭を巡るのが趣味で、地方の珍しい調理方法を覚えてきては子供に作っていたらしい。その影響からか父はよく変わった創作料理を作ってくれた。私のお気に入りは、卵焼きにたらこがを入った料理で、名前はなんというのかはしらないが、とてもおいしい。私も大人になった今、たまに作る卵料理だ。父の料理はどれもしょっぱくって、味が濃い目の料理を、「お母さんよりおいしい、お父さん毎日作ってよ!」と父にせがみ、母に面白くなさそうな顔をさせた覚えがある。
さて、最後にもうひとつ、爆ぜそうで爆ぜなかったお話。
⑤ 医者に救急車を呼ばれなかった事件
生まれて数年はお腹の中にいた胎内記憶というものがあるらしいが、もう私はアラフォーなので生まれた時の記憶などは皆無だ。だからこれからお話しする私が爆ぜそうだった話は、幼稚園の時と同様、聞いたものになる。
私は逆子だったが通常分娩で生まれた。今でこそ、逆子の場合は帝王切開扱いだが、少し前まではそういったこともなく、逆子であっても通常分娩だったらしい。母は最初は帝王切開と言われていたらしいが、出産時はなぜか通常分娩となった。初産で勝手がわからない状態で出産に挑み、しかも運悪く、丁度、母の母、つまり私の母方の祖母が乳癌で入院している時期だった。私が生まれた産院は、下が病院、上が住居になっている個人病院であった。初産で時間がかかったらしく、母はしばらく1階の病院に、医師は2階で過ごしていたらしい。気が付いた時には母の股からは、私の足がピョッコリ出ていた。確かに私は短気でせっかちな性格だが、生まれるときぐらい、大人しくしていれば良かったように思う。
医師が急ぎ出そうと対応したが、なかなか出てこない。うんとこしょ、どっこいしょ状態である。それもそのはず、私の首には3重にへその緒が巻きついていて、足が引っ張られれば引っ張られるほど、首が締まるという悪循環だった。生まれてくるときに首に臍の緒を巻いて出てくるなんて、ゾッとする話だが、よくあることらしく、全体の4分の1程度で起こる。羊水をたらふく飲んで、それでもなんとか生まれた私は、救急車でなく自家用車で運ばれた。母曰く、呼び出された父と祖母は、医師から自分たちで生まれたばかりの私を病院に連れていけと言われたらしい。動揺する父方の祖母に対して、医師が「おめさん、4人も産んだ母親だろ」と言って私を渡したというのだ。小さな病院から大きな病院へ自家用車で運ばれた私は、診察を待っている間に顔面が青くなり、チアノーゼを起こし、そのまま緊急入院となった。
最近、小児科にお世話になることがあり、その医師から聞いた話によると、足動かす部分の脳の場所は、手などに比べて1番遠くにある部分なのだそうだ。なかなか生まれずに、さらにチアノーゼを起こした私は、脳に酸素が行きわたらなくて障害を負ったのではないか?ということらしい。あくまで推測で、実際はどうなのかは誰にもわからない。なぜなら、先にも述べたように、両親は産院の医師を訴えていないからだ。
突っ込みどころ満載な状況なのに、なぜ訴えなかったのか?もちろん、両親は最初、訴えるつもりだった。しかし、医師を訴えるには、同じような専門家の医師の協力が不可欠で、かつ2000万円ほど経費が掛かり、長い戦いとなるため時間を要する。穿られなくてもいいことを穿られる戦いになるため、精神的にも辛い日々となる。それなのに、勝てるかどうかわからない。確実に勝てる戦いではないのだ。自慢じゃないが、私の家は決して裕福ではなかった。勝算のない戦いに多額のお金を投げ出すよりも、私のリハビリや教育にお金を使いたいというのが、両親の出した答えだった。私はこの話を、まるで子守唄のように小さい頃から聞かされた。何度も話すのは、母も悔しかったのだろう。そして、私に対して、懺悔もあったのだと思う。でも私は、裁判をしなくて良かったように思う。誰かを訴えて勝ったとしても、私が普通に動けるようにはならない。両親の気は収まり、多少財布も潤うかもしれないが、それに引き換えに、支出しなければならない費用と精神的ストレスはいかほどだろうか。そのような熾烈な戦いに家族が巻き込まれなくて本当に良かったと思う。いやごめん嘘、ちょっといい子ちゃん過ぎたな、家族が面倒な目に合わなくてよかったとは思うけど、私の障がいの原因が真実その医者の所為であるのならば、来世では、1000回ぐらいバナナの皮で滑って転んでしこたま恥を掻いてほしい。
本当に、どれだけ運が悪いのか?私の出生時の運は、今どきのスマフォゲームのガチャの確率より悪すぎるのではないか?レアといかないまでも、普通カードでよかった。まぁ、起こってしまったことは仕方ない、時間が戻るわけでもない、私は私で今を与えられたカードで生きるしかないのだが。
しかしながら、私は父と母のもとに生まれたということは、とても運が良かったように思う。世の中、五体満足に生まれようとも、愛されずに不幸な目に合う子供が沢山いる。障害があることで、愛されない子もいるだろう。そんな中、私は私のことを愛してもらえる家に生まれたのだ。そう考えると、運が良いのか悪いのか。
そうそう、その後の話も少しだけ。私は未熟児で生まれたのもあってか、立派に貧弱に育った。貧弱の貧弱、最弱の弱である。どれぐらいかというと、大きな病院に入院して医師から言われた言葉はドラマでよくあるセリフで、「2歳までは生きられないかもしれません」だった。あの枯れ葉が落ちるころには彼女は・・・というよくある展開である。両親は嘆き悲しんだが、いや、もうわかるかと思うが、無事2歳を迎えた。そうすると次は、「10歳まで生きられるかどうか・・・」という言葉が待っていたが、無事10歳の誕生日はやってきた。この時、私には3歳下と10歳下の弟がおり、誕生日はみんなで楽しく祝った。私の誕生日には、家族とも祝ったし、クラスメイトとも祝った。母はたくさんの料理を作って、クラスメイトを呼べるだけ家に招待した。私の通った学校は養護学校ではなく、普通の学校だったのでクラスメイトはみんな健常者だ。クラスメイトは私が階段を上がるときなどには杖を持ってくれて、一緒に上ったり、遠足の時は荷物を持ってくれた。行事の際はいつも仲の良いお友達が一緒に居てくれた。いじめられたこともあったが、それはほんの1人、2人の話。100人いて1人、2人だから、たった1~2%の割合だ。ほとんどの子は、とても私に友好的かつ協力的だった。そんなだったから、母は「いつも娘のことを助けてくれてありがとう」と日ごろの感謝を込めて誕生会をした。どれぐらいだろう、1度や2度じゃなかったように思う。
学校はとても楽しくはあったが、学生時代は同時進行で何度も何度も入院をした。多い時は1年に5回の入院。主に発熱、喘息、肺炎だ。その他に、小学3年と5年の時に2回、輸血を必要とする足の手術もした。子供のころ、私はご飯をあまり食べれない子だった。家族からは「ごぼうちゃん」などとあだ名をつけられた。食が細く、運動も儘ならない私の足は、ゴボウのように細かったからだ。10歳の次は20歳、成人を迎えられるかどうかわからないというものだったが、これも問題なくクリアした。20歳を超えると、特に何も言われなくなった。20歳を超えてからは喘息でこまめに入院するようなことはなくなったように思う。他の年代の子と同様、遊びに仕事に飛びまわっていたように思う。20代前半には、中学の同級生と偶然再会した。その彼が大学生の頃から、恋人として付き合いはじめ、結婚したのは30歳。私が結婚すると知った時は、両親はそれはそれは喜んだ。そして両親と同じぐらい皆喜んでくれたのだが、中でも母方の祖母はとても喜んだ。祖母は、私が生まれるときに自身の乳がんの手術のため母の出産に立ちえなかったことをずっと悔やんでいた。障がいがあるせいで、女の子なのにお嫁に行けなかったら…と、そのようなことをきっと思っていたのだろう。残念ながら、心臓の調子が悪かったため、祖母は結婚式には出席できなかった。しかし、結婚式の写真は病院で見せることができた。持参した写真は、お色直しのカラードレス写真。私と主人が、よくある結婚式のポーズで立ち座りしている写真だ。私のドレスの色は私の大好きな色、青緑でフリフリなドレスだった。そして私の腕は白かった。祖母は目が悪く、私のドレスと白い腕の部分がようやく見えたのだろう、「なんだこりゃ、大根の写真か?」と言われたのはいい思い出である。私も母も祖母の言葉に大笑いした。こぼうちゃんと呼ばれていた私が、30年の時を経て大根ちゃんと呼ばれた瞬間だった。アラフォーになった今、新陳代謝が悪いのと運動不足のせいなのだろう、糖尿病などの持病はないが、若干太り気味。今こそゴボウちゃんに戻りたいお年頃。おっと、努力すればいいのでは?という血も涙もないセリフはNothanksだ。この前、夏服を買いに行ったとき、あまりのデブリ具合に気に入ったワンピースが土管かな?と思うぐらいのシルエットだったため、購入を断念したばかりだ。頼むから傷口に塩は塗らないでくれたまえ。
さてさて、話が長くなった。この辺で話をまとめたい。色々なエピソードをご紹介したが、最後に、一体全体、「なぜ私は爆ぜなかったのか?」を考えたいと思う。
皆、「自分は、何のために、この世に生を受けたのか」と疑問に思ったことはないだろうか。思えば、私はそんな中二病チックなことを小学生ぐらいから早くも思い悩んでいた。入院が多かった私は、山ほど考える時間があった。あまりに時間がありすぎて、点滴をしながらボーッと、天井の掘り飾りを端から端まで数えるほどだった。壁紙の模様が何回繰り返し印刷されているかも数えたこともあった。そんなぐらいだったから、他のことも当然いろいろ考えた。他人と比べて、なぜ自分はいつも点滴をしてベットの上に居なければならないのだろう。いろいろと思い悩んだ末、やはり自分は欠陥品のような存在なのではないか?と思い始めるようになった。それなのに、なぜ生まれてきたのだろうか?という疑問にぶち当たる。考えれば考えるほど、わからなくなった。そのうち、胸にモヤモヤしたものが生まれた。でも、病院には私よりもつらい思いをしている人がたくさんいた。むしろ「辛い」「苦しい」という考えさえも抱けないような子もたくさんいる。そういった子供の傍らにはいつも、その子の母親が、父親が、おばあちゃんおじいちゃんが、医師が、看護師が、その子を支えるために寄り添っていた。私も例外ではない。たくさんの人に支えられてきた。小さい頃からそのような環境に身を置いてきた私が、この疑問を「辛い」「苦しい」「爆ぜたい」などと、周りに当たり散らしたり叫んだりすることは、簡単だし、したらスッキリするかもしれないが、何か違う気がした。私よりも、もっともっと頑張ったり辛い思いをしている人がいるのに、私が根を上げてしまうのかと、自分を奮い立たせた。こうも思った。そんな答えのない謎々をいつまでも胸に抱えてモヤモヤしたり、悲しい顔をしていたら、私を支えてくれている人達、とくに両親に対して申し訳なく思った。それよりも、私が笑顔でいつもニコニコしていることがとても大事なことに思えた。不思議とニコニコしていると、幸せがいっぱいやってくるのだ。笑う門には福来る、である。そして、それは間違いがなかったと、最近、証明ができた。
というのも、私は不妊治療を経て、38歳にして高齢出産し、1児の母になったからだ。改めて、母は偉大だな、と思う日々を過ごしている。幸い、今のところ子供は私のような障がいは一切ないが、もし障がいがあったとしても、決して欠陥品などとは思わないし、思ってほしくはない。どんな辛いことがあったとしても苦難を乗り越えて、どうか幸せに、と願わずにはいられないだろう。生まれてきてくれてありがとう。感謝の塊である我が子が笑う時、私はとてもうれしい。子が笑っているだけで私はとてもとても癒され、幸せな日々を過ごしている。今では、我が子のためにも私自身、いつも笑顔でありたいと思っている。母が渡された命のバトンを娘の私が一生懸命38年生きて、今度は子供に渡せる素晴らしさ。この子に会えた!なんたる奇跡!もしや、このために生まれてきたのでは?と、今更ながらにモヤモヤの答えに行きついた。ババァと呼ばれる年になるぐらいまで、生きてみないとわからなかった。
つまり、だからきっと。
私はどんな目にあっても、これからも爆ぜないのだと思う。自然に病気か事故で爆ぜてしまうことがあっても、自ら爆ぜてしまうことはないだろう。
もし、これを読んでいるあなたが、壁にぶち当たって、「いっそ爆死して消えてなくなりたい」と思ったときは、思い出してほしい。
ゴミ箱にケツが挟まって屁をこいた私のことを…
私のことを…(エコー)
齢3歳で抜け者にされた私のことを…
そして、その他諸々も…も…(エコー)
生きていれば、時には爆ぜたい時もあるだろう。
けれども、私の経験上、数十年したら、「この瞬間のために私は生まれたのか!」と思える日が来てしまうんだから、本当に人生とは面白いと、私は思うのだ。
奈落から天国、天国から奈落へ、
人の気持ちは落ち込んだり舞い上がったり、忙しない。
山あり谷ありだが、だから楽しい。面白い。
せっかくの人生なのだ、面白おかしく生きたが勝ちだと思う。
途中で爆ぜるなど、勿体ない。これから何が起こるかわからないのに!
しかしながら、いつやってくるかわからないビックチャンスやビックウエーブを待ち切れず、もやもやに囚われてしまう人も中にはいるだろう。そんなとき!誰にでもお勧めできる素晴らしい言葉があるので最後に聞いてほしい。それは「明日10億円あたるかも」だ。0%ではないと思う、その割合は、明日貴方が宝くじを買うとさらに確率が上がるかもしれないし、道端で困っている貴婦人を助けることで、後日、石油王からの傘地蔵的な10億円が届く確率も少なからずあがると思う。これでどうにか「いっそ、爆死したい」からの「爆死しなくてもいいかも…」までの心が落ち着く時間を稼いでほしい。大事なのは今辛くとも、大体数年経ては笑いになるということを忘れずに、だ。勿論、到底笑いになどできない事柄もあるだろう。正直目の前に本当に10億円をドンと置かれても、心が動かない、打ちのめされる時もあると思う。でも、時ともに自分の気持ちと折り合いがついて、「ああ、なんだかんだ言って、結局のところ、爆ぜなくて良かったぁ」なんて思える日が来ることを私は信じている。
結構長く打ちすぎてしまったが、まだ書きたりない。
妊娠時に、30代にして老人ホームに入った話などもしたかったが、どう加えていいかわからないのでその話はまた後日。この文章は、この辺で終わろうと思う。みなさん、コロナで大変な毎日ですが、今日も爆死せずに程々にがんばりましょう。10億円のお約束はできませんが、とりあえず10万円は国から貰えますので。
おしまい。