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『義』  -大金を手に- 長編小説



-大金を手に-

「お疲れ様です」

 大輔は言った。吉田は表情を変えず、勝利に喜んでいる素振りもなかったが、肉体には汗が輝き、戦果を称え、美を更に修練させていた。

 吉田はパイプ椅子に座り、試合前と同じように腕を組んでいる。すると黒いスーツを着た男が吉田に近付き、白色の分厚い封筒を渡した。吉田は封筒を受け取り、中身を確認することなく、大輔に差し出した。これはなんだと思いつつ、大輔は封筒を受け取った。すると、吉田が椅子から立ち上がり、入り口に向かい歩き出した。大輔も遅れまいと後を追う。

 会場の拍手が鳴り続く。吉田は他所に目を振ることなく歩く。大輔は地下施設に入った時に感じた、震えるような恐怖が消え、まるで子供漫画の英雄になったような感情が生起する。目の前を歩く、鬼の形相を作る広背筋を持つ吉田となら、どんな世界にでも飛び込んで行けそうだ。大理石を踏みながらふわふわと足を進めていると、ソファに独りで座る男が、目に入ってきた。男は紺の蝶ネクタイを締め、周りの高貴な雰囲気に忖度なく溶け込んでいた。男とどこであったのだろうか、と大輔は思慮に耽る。新宿の街で擦れ違ったのだろうか。いや違う。アルバイト先の一見さんだろうか。それも違った。男の胸元に光るものがあった。目を凝らして見ると、議員バッチが光っていた。収賄の疑いで世の報道を席巻している人物だ。どおりで見覚えがあるはずだ。大輔は面白がって、ソファに座る人々を、一瞥しながら会場を後にした。国会議員以外は、見知らぬ人ばかりだったが、皆富裕層なのだろう。新宿に溢れる人々とは、醸し出す雰囲気が違った。

 大輔と吉田は、部屋に戻った。

「さっき、収賄の疑いが掛かっている国会議員が座っていましたよ。地下施設って、もの凄い場所ですね。大スクープというか。あ、もちろん他言しませんよ。これでも、命は惜しいですから」

 大輔の言葉が空を切り、吉田は見向きもせずに履いているパンツを脱ぎ、浴室に消えていった。

 浴室からは、細微な水が床を叩く音が溢れ出した。独りになった大輔は、手に持っている封筒の中身が気になった。吉田が見向きもしない分厚い封筒に、一体何が入っているのだろうか。浴室から聞こえる音が鳴り止まないことを確認し、封筒の口を開けて中を覗き込む。

 封筒の中には、空気を押し潰すほどの一万円札が櫛比していた。数百万はあるだろう。大輔は、これほどまでの大金を見た事がなく、手が細かく震え、短時間で大金を稼ぐ格闘家へ羨ましさが募ってきた。震える手を宥めながら、一万円札を取り出してみると、皺のないピン札が現れた。ばらけていた糸が繋がり、吉田が一流の格闘家だと確信した。吉田は試合で得た賞金のピン札で、BARの会計をしていたのだ。謎が解け、大輔は口元が緩んだ。

 いや、もしかするとこれは偽札ではないだろうか、と疑念が湧いてきた。地下施設には収賄疑惑の国会議員もいた。一般人が入れない地下施設なんて、そもそも怪しすぎる。疑心暗鬼になる大輔は、ピン札を天井の照明に翳してみた。中央に透かしがあり、ピン札は紛れもない本物だった。

 その時、浴室の扉が開き、水滴を裸体に貼り付けた吉田が、扉の前に立った。大輔は盗むつもりはないももの、罪の意識が生起し、持っていた札束を床に落としてしまった。ピン札は、落ち葉のように広がる。

「すいません。こんな大金を持ったのが人生で初めてで、勝手に封筒を開けてしまいました。本当に申し訳ありません。一枚足りとも、盗んだりはしていません」

 大輔は床に散らばった札を掻き集めならが、一心に謝罪した。吉田はバスタオルを取り出し、大輔の動きを見下ろしながら、全身の水滴を拭き取った。

 拭き終えた吉田は、真っ赤パンツに白いTシャツの格好で、ソファに座った。散らばった札を集めきった大輔は、吉田の隣で突っ立っている。リングに崩れ落ちた宮本と同じように殴られ怒られるのだろうか、と思い呼吸や鼓動をも会得出来るほどに、吉田の動きへ注力を注ぐ。

 すると、吉田の腕が動いた。大輔の筋肉が極度の緊張を迎える。しかし吉田は、拳を握ることなくテレビのリモコンを手にし、テレビをつけ、田舎の田園風景を空撮している映像を見始めた。そして太い脚を組み変え、酸素が希薄になるほどの深々と深呼吸を始めた。吉田から殴られなかった、と大輔の緊張が若干緩んだ。

 宗教儀式のような、数分間の規律正しい深呼吸が終わった。

「大輔。君の生きる意味を教えてくれ」

 吉田は口を開いた。吉田から、大輔に対する初めての問いだ。大輔は困惑した。生きる意味について、学者が懊悩するように深く模索したことも、友人と議論したことも、これまでの人生で一度もなかった。自然の中で幼馴染の男の子と一緒に育ち、青春を潜り抜け、予備校からの大学入学という、流行り映えしない人生だった。自己の才能に限界を感じつつある昨今ではあるが、生命活動を糊塗したわけではない。地に足をつけて生きているつもりだ。

「考えます。少し、お時間を下さい」

 頭を下げた。白い床を見つつ、小さな脳を、雑巾を絞るように捻ってみる。吉田の心を奪取出来るような、高尚な回答が、こぼれ落ちてこないだろうか。バイト先の面接官や、賃金の餌で雇われた入社試験の面接官なら、取り繕った語彙を並べ、偽りを述べたとしても、見透かされえることはないだろう。しかし、問い掛けられた相手は、吉田だ。吉田から、浅慮だと思われたくない。使えない子分だと思われたくない。考えに考えを重ねた。

「えっと、将来は人のためになる職業に就きたいと思っています。その為に、大学で経済の勉強をし、アルバイトをして見聞を広めています」

 大輔は言い終わると、吉田の表情を伺う。結局、大それたことは言えなかった。緊張し、質問の内容すらあやふやになっていた。

「そうか・・・」

 吉田の目が大輔を向いた。リング上で放つ闘気の目差しではなく、どこか寂しげだ。

「すみません。今二十歳で、東京に来たのも昨年でして、未だ未だ子供のような回答しか出来ません。吉田さんの、生きる意味を教えて頂けますか?」

「今日はやめておこう」

 吉田は視線をテレビへ戻した。

「分かりました。またお会い出来ますか? もっともっと、吉田さんの事を知りたいんです。吉田さんの戦う姿を見ていたいんです」

 大輔の問いに、吉田は答えず、テレビから流れる清澄な映像をぼんやりと眺めていた。

 無言の時間が続いた。一般的な人間関係ならば、無言の時間に辟易し、瑣末な話題でも引き摺りだそうと苦心するが、ここの時間は軽快だ。吉田の持っている包容力なのだろう。吉田の後を追い、一般人が経験出来ない事柄を、大輔は二十歳で経験している。吉田を追いかけた自分の目に狂いがなかったと思うと、やけに誇らしくなってきた。

 暫くすると、吉田はテレビの消し、立ち上がった。衣装棚の前に移行し、皺の無いシャツに袖を通し、身支度を整え始めた。大輔は吉田の身支度の様子を眺めた。

 吉田は着替え終わり、部屋の入り口へ向かった。

「吉田さん。このお金がどこに置きましょうか?」

 大輔の問いに、吉田は足を止めた。

「それは、大輔の給料だ」

 吉田が歩き出した。

「ちょっと。こんな大金を頂けませんよ。俺なんて、リングの外で眺めていただけですから。困ります。困ります・・・」

 大輔の叫びを聞いても、吉田は立ち止まらない。

 無言の二人は、無人の廊下を抜け、地上へと鉄筋の階段を登ってゆく。大輔は行きと変わらず、キョロキョロと首を振りながら、地下施設を観察していた。所々に扉があり、磨りガラスから薄暗い明かりが灯っている。この扉からも、選ばれた人間が出入りをするのだろう。広大な地下施設に思いを馳せつつ、階段を上がっていった。


続く。



長編小説です。

花子出版   倉岡




文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。