文学碑ガール 最終章(全3章) 短編小説
最終章
旅館へ帰った川崎と秋山は、座卓を挟み畳の上に寝っ転がり、川端康成の小説を眺めた。古色を帯びる旅館の壁色と、文庫本の紙色がいつしか同化し、壁や天井に文字が浮かんでいるようだった。
日が傾き始め、障子越しに夕日が差し込み始めた。
「夕飯が楽しみやなあ。美味しい刺身を食べたい」
「うん。けれど、三木さんとドライブに行くから、酒は飲めないよ」
「なあ。三木さんとのドライブは、川崎が独りで行ったほうがええやろ。俺は邪魔な気がするわ」
秋山は本をパタリと閉じ、起き上がった。
「邪魔ではないと思う。三人の方が楽しい。きっとね」
川崎も起き上がった。
「それは、嘘や。あんな強気な川崎をみたのは初めてや。川崎は『寡黙で女嫌いの男』としてゼミで有名なんや。そんな川崎が勇気だして声掛けたん女やぞ。せっかくやし二人で楽しんでき。俺は酒飲みながら伊豆の夜を満喫するさかいに」
「かたじけない。好意を抱いているのかは、分からないけれど、興味がある。文学碑ガールの素性に」
「それが恋っちゅうもんや。踊子やないけど、それもありやろ。三木さんは可愛いけれど、俺の趣味やないな。俺はもっと奇抜な女が好きや。さあ、飯食いに行こ」
秋山は立ち上がり、部屋を出た。川崎は秋山を追った。軋む床が、日に暮れゆく館内をより寂しく彩った。
熱いお茶で乾杯をし、座卓に広がる料理をつまむ。川崎は口数が少なくなった。自分のエゴで文学の旅が、台無しになってしまったのかも知れないと危惧した。
一方の秋山は、培った経験から彼是と汲み取り、陽気に話をしながら料理を堪能した。
二人は湯飲みへ注いだお茶を飲み干し、口内で演舞する美味の余韻を堪能した。
「いやー、美味かった。素材が美味いから、どれをとっても文句なしだ」
「うん。贅沢なご飯だったね」
「さてさて、三木さんが待っているやろ。準備して行って来な。俺はもう一回風呂に入って、のんびり読書でもするさかい」
「すまない」
二人は席を立ち、大女将へ料理の謝辞を述べ部屋へ帰った。川崎は着替えて部屋を出た。友情の華美な重苦しさを背中に抱えながら、旅館を飛び出し車へ向かった。
慣れない小道をゆっくりと車を走らせ、三木の待つ福沢旅館に着いた。旅館の入り口には、朧げな明かりに照らされる三木が、ひっそりと立っていた。川崎は車を降り、早鐘を打つ心臓を、文学で培った言葉という諸刃の剣で、適当に宥めながら三木へ近付いた。川崎の到着に気づいた三木は、笑みを浮かべた。
「こんばんは。友達の秋山は、旅館で休んでいます。男一人で来ましたけれど、構いませんか?」
「はい。勿論です」
三木は訝しむことなく小さく頷いた。安堵する川崎は助手席の扉を開け、三木を車内へ入れた。
蚊の鳴くようなエンジン音が車内に響く。密閉率の高い最新の車は、河津川の水音を遮り、二人の錯綜する感情を憎らしいほどに企てていった。会話の緒を探す川崎は、三木の呼吸を頬で感じながら、文学で培った高尚な言葉をあれこれ思い浮かべては消し去った。
「どこか行きたいところありますか?」
「折角ですから、天城越えをしませんか?」
「分かりました」
川崎はアクセルを踏み、真っ暗な公道へ車を進めた。
中伊豆を貫く道路に後続車や対向車がなく、車は加速してゆく。
「同級生だから、敬語は止めませんか? 友達と談話するように話していただけると、僕は嬉しいな」
「はい。分かりました」
三木の瞳に、トンネル内の照明が流れ星のように映り込む。川崎は三木の表情を眺めたい気持ちを抑えながら、フロントガラスを眺めた。幾何学模様のコンクリート塀のトンネルが続く。
「三木さんが、伊豆へ来た理由は何? 文学碑巡りだけではないように見えるんだ。心ここにあらずというか、顔は笑っているけれど、どこか物寂しさを感じてしまう。何かあったのかな?」
「川崎さんは鋭いんだね。流石小説家」
「僕は似非小説家の学生だ。ねえ、三木さんのことを知りたい。三木さんに興味があるんだよね」
「小説に描きたいの?」
「違う。小説なんて、紙の上で踊る机上の空論さ。この車内のように、男女の間に比べると、枝葉末節で馬鹿げている。僕はね、三木さん自身のことを知りたいんだ」
「分かった。けれど、こんな車の中で話すなんて、ムードがないと思う。天城を越えて、浄蓮の滝へ行こう。私たちが話すにはぴったりの場所になると思う」
ドアガラスに額をつける三木は、乾く瞳をまばたきで潤わせつつ、車窓
流れる暗闇をぼんやりと眺め続けた。
車は風を切り駆け抜けた。
浄蓮の滝の駐車場へ車を止め、ヘッドライトを落とす。街灯と自動販売機に明かりが、ひっそりと影を落とす。人の気配は霧消し、濃い闇の光が獣のように辺りを乱雑に動き回っていた。
「誰もいないね。三木さん、懐中電灯持っている?」
川崎が尋ねる。
「持ってない」
「僕も持っていない。それじゃあ、携帯電話のライトに頼ろう」
川崎は鞄から携帯電話を取り出そうと、手を入れた。すると、三木は川崎の腕を強く握った。
「要らない。明かりなんて要らない。浄蓮の滝がそう言っている気がする」
「そう・・・。分かった」
川崎は三木の目力に驚きつつ、鞄から手を出した。三木は川崎の腕を離した。
二人は車を離れ、街灯の明かりが届かない真っ暗な細道へ入った。傾斜のきつい下り坂が川崎の慎重さに蜜を垂らす。川崎は目を凝らし、辺りを観察した。月のない夜だった。天を舞う仄かな星屑だけでは、地面の凹凸を見つけることが難儀だった。
一方で、三木は暗闇に怖じけることなく、ステップを踏むように進んだ。
「三木さん、猫みたいに進んでいくね。暗闇を怖くはないの?」
「怖くない。私は夜が好きなの。月のない夜が好き」
「変わっているなあ。僕は田舎育ちだけれど、暗闇は苦手だね」
「川崎君は臆病なのね。いや、繊細っていった方がいいのかな。もし、不安なら手を繋ぐ?」
「良いの? 見ず知らずの男と手を握ったりして」
「減るもんじゃないでしょ」
「どうだろう・・・。手を繋ぐ小さな高揚感で、これからの僕らを待つ、もっと大きな高揚感が失われる気がするなあ」
「繋がない? 私はどっちだって良いの」
「あ、繋ぐ。繋ぐよ」
焦燥する川崎は手探りで三木の腕を掴み、腕を伝いながら指先まで移動させ、指を絡めた。
「これで安心ね。さあ、滝壺まで行こう」
三木が先導した。川崎は矜持などのあらゆる感情を捨て、三木の力へ身体を託した。
水を叩く一定の旋律が、闇に響き渡る。浄蓮の滝は近かった。滝壺で混じり合う新旧の泡沫が水の粒子を宙へ巻き上げ、温度を下げて心地良さを作り出す。手を握り合う二人は、水の屹立を見上げた。
「どう? 目は慣れた?」
水の喧騒を跳ね除けるように、三木は大きな声を出した。
「うん。ありがとう。滝の形状が手に取るように見えるようになった。浄蓮の滝は意外と高いなあ」川崎も三木に負けないくらいの大きな声を出した「ねえ、三木さんが伊豆に来た理由を教えて欲しい」
「私のことを好きになってくれる?」三木は川崎の耳元で婀娜っぽい声を出した。「もし、好きになってくれたら教えてあげるわ」
「唐突だなあ」
川崎は期待混じりの曖昧な声を出した。
「恋は突然やってくるもの。恋は盲目ってどこかの見識者が言っていたわ」
「ははは、確かに三木さんの言う通りかも知れないなあ。僕なんて、素性の知らない三木さんをドライブに誘って、真っ暗闇の浄蓮の滝へやってきたわけだ。正気の沙汰ではない。もし好きになったら、三木さんのことを教えてくれる?」
「愛してくれるならね。私のどんな姿も・・・」
「どんな姿って、三木さんは魅力的な女子大生じゃないか。ちょっぴり変わった哀愁漂う文学碑ガールだ」
三木は空笑いする。すると突然、滝の音が消え、風の音が消えた。
「まあ、それはそうね。でも例えば、私が浄蓮の滝に住む女郎蜘蛛だとしたら、どうする? それでも私を愛することが出来るのかしら」
「女郎蜘蛛か。もし愛してしまうと、滝壺に引きずり込まれそうだな」
「そう、死ぬの。どう、私を愛するの? 愛さないの?」
冷たい三木の指先が、川崎の頬を撫で始めた。頬を撫で終わると、首筋に移動する。
しかし、川崎は冷静だった。
「勿論、愛する」
川崎が断言すると、三木の指先は川崎から離れた。すると、音が返り、風が返った。
「なぜ? なぜ? なぜ、女郎蜘蛛でも愛することが出来るの?」三木は張りのある声を出す。「滝壺に引きずり込まれて、死んでしまうかも知れないんだよ。突然、恐ろしい容姿に変貌してしまうかも知れないんだよ。それでも何故、愛することが出来るの?」
「うん」川崎は力強く頷き、くしゃくしゃに縮んだ紙を開くように持論を展開した。「女郎蜘蛛は存在するかも知れないし、又は伝説かも知れない。それは分からない。僕は生物学者でも物理学者でもない。ただの文学青年。だから、個人的な推察になるけれど、日本に伝わる様々な伝説は、人間への戒めだと思うんだ。
例えば、女郎蜘蛛の伝説だと・・・。
とある男が鉈を滝壺へ落としてしまい困っていた。すると妖美な女郎蜘蛛が現れ『あなたの落とした鉈は返してあげますが、このことを口外すると命はありませんよ』と約束して、鉈を返してもらった。けれど、酔っ払ってしまった男が約束を破って口外し、忽然とあの世に連れ去られたって話。
この話は、約束を破ることなかれ、決して嘘をつくことなかれ、という人間への戒めだと思う。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる。この伝説と似ているような気がするんだ・・・。
僕は三木さんに好意を抱いた。それが女郎蜘蛛だとしても、自分の心に嘘をつきたくない。いや、例え女郎蜘蛛だって良いんだ。だって、世間を見てみなよ。嘘を吐きまくり、金に集っている男や女がたくさんいるよ。虚栄心が屹立した燻んだ世の中じゃないか。それよりも、女郎蜘蛛の方が僕にとっては可憐に見える。だから、三木さんが例え女郎蜘蛛でも愛する」
くしゃくしゃだった川崎の持論は、皺のない一枚へと開き切った。
「川崎君は変わっているね。やっぱりと言うか・・・」三木は小さな溜息を吐く。「私はね、そんな川崎君を追っかけて、伊豆へ来たの。バレないようにね。女嫌いの川崎君とどうやって射止めるかを試行錯誤した作戦がこれ。文学碑ガールを演じなきゃいけないから大変だった。純朴を演じなきゃいけないから大変だった。でも、『愛する』と聞いて、私の中で張り詰めていた糸が切れたわ。安心・・・」
三木は川崎の胸元に飛び込み、背中に手を回した。
「いつから?」
「大学の入学式かな。一目惚れよ。川崎君は気がつかなかったと思う。だって当時の私は、金髪でパッチリメイクだったからね。でも、そんな容姿じゃ私のことを好きになってくれないでしょ?」
「うーん。分からない」川崎は回答を濁した。「恋は盲目だからね」
「ねえ、キスしてもいいかな」
三木は顔を上げ、川崎を見つめた。川崎は小さく頷く。二人は瞼を閉じ、心の目で互いを見つめ合った。
二人の唇が溶け合うように重なり、一つになった。それは伊豆で育まれた数々の醇乎の口付けの一ページとなり、浄蓮の滝を流れるせせらぎに刻まれた。
星屑が西へ走る。東からは月が現れ、中伊豆の大地を優しく照らした。無言で走り続ける車は、三木が泊まる福沢旅館を目指す。二人の間に会話はなかった。これから二人を待つ開かれた未来を噛みしめるだけで、二人の感情は高鳴り、河津川の水音に勝る軽やかな音色が車内に鳴り響いていたのだった。
福沢旅館に着き、三木はシートベルトを外す。
「じゃあ。ありがとう」
川崎が言った。
「ありがとう。また小説を読み聞かせてね」
三木は川崎の唇に口づけをし、車を素早く降り、旅館へ消えた。川崎は三木の後ろ姿を瞳へ焼き付けた。
川崎が旅館の襖を開けると、秋山は布団の上で胡坐をかいて本を読んでいた。川端康成先生の『古都』を。
「ただいま」
川崎は小声で言った。
「おかえり」
幼げな目の秋山はまばたきを数回した。
「起きていたんだね。遅くなってしまって、悪かったよ。ごめんな」
川崎は秋山が敷いた布団へ寝転がり、枕元にある文庫本を手に取り眺めた。何回、何十回、何百回と見開きした古書は、いつしか川崎の体の一部となっていた。それは伊豆を割て流れる河津川と同じように。
「何読んでるん?」
三木は川崎を座卓越しに眺めた。
「『伊豆の踊子』」
「会うてきた三木さんは、伊豆の踊子やった?」
「かも知れないな」
「そっか。また伊豆に来よな」
「うん」
了