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『義』  -吉田の過去(前)- 長編小説



吉田の過去(前)

 シャワーを浴び終えた下着姿の吉田が、ソファに座った。汗の匂いが消え、石鹸の香りが漂っている。

「すっきりしたよ。大輔もシャワーを浴びるかい?」

 吉田の問いへ、大輔は首を横に振り、必要がないことを伝えた。苦心していた感情と、反り立った陰茎は、時間と共に治っていた。

「大輔。俺の戦いは終わったよ。いつの間にか、こんなに歳をとってしまった。これを機に、地下施設から足を洗おう。もう満足だ」

 吉田は寂しそうに言ったが、声に弱々しさはなく、通る声色だった。

「ちょっと待って下さい。俺としては、吉田さんの戦っている勇姿を、もっともっとこの目で見たいんです・・・。それに、もし戦わないとなりますと、山岡元さんへ掲げる戦いも、終わるのですか?」

「ああ。二十年間、ずっと戦い続けた。使命感や達成感と言う安直なものためでなく、元を守れなかった罪滅ぼしのために。それが俺の『義』だった」

「守れなかった・・・。元さんは自殺したはずでは?」

「そう、元は自殺した」

「もし、宜しければ、当時の話を聞かせてくれませんか? こんな、馬鹿で田舎者の大学生が理解出来る話ではないのかも知れません。それでも、知りたいのです。吉田さんの全てを知りたいのです。独りで戦い続け、独りで戦いを終えるなんて、とても辛過ぎます」

 大輔は吉田の腕を掴んでいた。肉体を触りたい願望ではなく、吉田の過去への探究心が、勝手に手を動かした。

「分かった。元については、墓場まで持っていこうと決めていたが、大輔なら話せそうだ。だが、話すのは、これが最初で最期になるだろう。俺と元が幼少期、小学時代に仲がよかったことは、知っているだろうから、中学生になった時から話すと良いだろう・・・・」

 吉田は瞼を閉じた。

「俺と元は、同じ中学校へ入学し、そして同じクラスだった。大きめの学生服を着て、桜並木を一緒に歩いて登下校し、休み時間も昼休みも一緒に過ごし、一緒に下校し、小学校と変わらずの関係だった。入学後、二週間位経った頃だろうか、部活動の話になった。俺は成長期で、大きくなる身体を雄大に使いたく思い、柔道部へ入ろうと決めていた。身体を鍛え上げる事を求めていたんだ。しかし、自分独りで運動部への入部となると心細くなり、元を誘った。元は嫌な顔を一つもせずに、笑顔で承諾してくれた。屈託のない笑顔。もちろん俺は、元の身体が生まれつき弱く、運動が苦手なのを知っていた。いや、俺以上に、自分の身体だから、元は自分で理解していただろう。でも、俺の傲慢な誘いを、優しく承諾してくれた。

 俺と元は体操服を持って、武道場へ行った。俺は緊張していたが、元が『一緒に頑張ろう』と励ましてくれた。大きな体格なのに、情けない話だ。武道場には、汗の匂いが漂い、荒々しい呼吸の音、肉体が畳を叩きつけられる音、気合いの声がけたたましく鳴り響いていた。俺は道場の気迫に負けて躊躇していた。しかし、元が背中を押してくれた。

 元が『僕たち、柔道部へ入部希望です』と、入部の意を伝えてくれた。上級生たちは、元の身体を見て笑っていた。子供の遊戯会を小馬鹿にしているような目だった。俺は立腹したが、威厳を放つ先輩たちが怖く、何も言えなかった。それから、入部試験と言う名目で、俺と元は貸し出し用の柔道着に着替えさせられ、先輩たちと試合をすることになったんだ。ルールを知らないから、相撲をとるようなものだ。体格が良いからと言う理由で、俺から畳へ上がった。緊張と恐怖と、若干の心地よさにて、心臓は早鐘を打っていた。

 俺は上級生に掴みかかった。上級生は膝を曲げ、腰を低くして、俺の力をはかっていた。柔道着のどこを掴めば良いのかも分からなかったから、袖口を握ったり、前襟を握ったり、帯を握ったりと、掴み変えては、押し引きした。しかし、上級生は力の流し方を熟知していたため、投げ飛ばせる体制へ持ち込むことが出来なかった。畳の脇で、目を丸くしている元は、声変わりしていない甲高い声を上げ、俺を応援していた。まあ、どんなに頑張っても、試合は負け。俺の息が上がってきたところを、上級生から内股でひっくり返された。

 上級生からは『お前から才能を感じる』と言われ、頭を撫でられた。とても嬉しかった。

 その後、元が畳へ上がった。身体に合った柔道着がなく、元はまるで十二単を着ているような格好だった。先ほどと同じ上級生が相手をし、元は上級生を捕まえにいった。すると、元が上級生の柔道着に触れるか触れないかの所で、上級生は後ろに倒れて尻餅を付いた。まるで、元が魔法を使ったように。俺は何が起きたのか分からなかった。

 すると次の瞬間、武道場の神聖な静けさが消え、笑いの渦が巻き起こった。ある上級生が畳を叩き、ある上級生は腹を抱えて足をバタつかせている。『負けだ、負けた』尻餅をついた上級生は、元の頭を激しく撫でた。上級生は意図的に、尻餅を付いたんだ。

 俺と元は道場を出て、葉桜が眩しい歩道を歩いた。俺は、元にとった上級生の態度が気に食わなかったが、それ以上に柔道着を掴む感触や、肉体を躍動させる喜びが勝っていた。指先が熱くなり、指先から派生して、自分の肉体が孵化してしまうような、心地よい感覚があった。初めての体験だった。元はそんな俺を察したのか『今日は楽しかったね。いっぱい汗をかいたよ』と笑顔で言った。嫌な顔は少しもなく。俺は上級生の悪ふざけの事実を話し、元へ入部の有無を確かめた。すると、察するかのように元は『僕も頑張ってみるよ。雅彦くんも、頑張るんでしょ? 僕は運動音痴だから、足手まといになるかも知れないけれど、一生懸命に頑張るよ』と言って、俺の手を握った。その元の握る手は、上級生とは違い、弱々しかった。

 俺と元は、毎日欠かさずに部活へ参加した。俺は毎日が充実していた。学校で新しい友人が出来、授業では新しい学びがあり、そして何より、部活では良い技を習得すると上級生に褒められて、身体が筍のように成長してゆく。これほどの幸せを享受して良いものか、と思い悩むほどだ。元は嫌な顔一つせずに部活へ参加したが、技の習得が出来ず、多くの稽古で独りぼっちだった。



続く。

花子出版   倉岡




文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。