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『義』  -咲子- 長編小説



咲子

 二人は帽子を被り、外に出た。日が傾き始め、田圃を駆け抜けてくる風が幾分涼しく感じた。庭を出て、車の往来が無い道路の真ん中を、まるで酩酊する会社員のように、右へ左へと横断を繰り返しながら、宛のない散歩を続ける。大輔は家々を見ながら、故郷の情趣に浸る。健斗は道路脇に茂った向日葵の葉を手で撫でたり、側溝を流れる透明の水を覗き込んだり、と田舎を味わった。

「やっぱり田舎って良いなあ」

 健斗は声を漏らした。大輔は故郷を褒められ、愉快になった。

 古びた神社の隣に建つ家から、若い女が出てきた。大輔と健斗は、出てきた女を眺めた。

「大輔くん?」

 女は目を見開きつつ、探るように慎重な声色で問い掛けた。大輔は女の顔を眺めて、薄らいでいた記憶と擦り合わせる。

「あ、さっちゃん。化粧しているから、誰か分からなかったよ」

 大輔は声を上げた。女は道路へ飛び出す。

「久しぶりだね、大輔くん。元気にしとったと? 東京に出たとでしょ?」

「うん、元気。東京の大学に通っているよ。あ、こいつは大学の友達で、内藤健斗。一緒に遊びに帰ってきたんだ」

「健斗さん始めまして、私は柏木咲子です。大輔くんとは、幼馴染です。なんもなか、村へようこそ」

「はじめまして。同級生なので、敬語じゃなくても良いですよ」

 健斗は羞恥しに頬を染めた。

「あ、そうたいね。じゃあ、健斗くんって呼ぶね。ねえ、二人はいつ帰ってきたと?」

「ついさっき」

「お盆じゃなかとに、休めるなんて、大学生はよかね」

「さっちゃんは、働いているの?」

「うん。海沿いの介護施設で働いとるよ。今日は早番だけん、さっき帰ってきたと」

 大輔と咲子は、近況の話題に花を咲かせた。健斗は咲子の豊かな表情を見続けていた。道路の真ん中で、大人三人が立ち話をしているが、誰も文句を言わない。言うはずもない。車は一台も通らなかった。

 暫くすると、乾いたサイレン音が鳴り響いた。夕方五時の合図だ。

「あ、洗濯物を入れなきゃ。じゃあね、大輔くん、健斗くん。暫くいるなら、一緒に遊ぼうね」

 咲子は手を振り、帰っていった。

 大輔と健斗は来た道を引き返した。茅蜩が泣き、夕暮れを急かしている。

「さっちゃん・・・」

 健斗が口を開いた。

「さっちゃんがどうした?」

「なあ、さっちゃんって可愛いなあ。一目惚れしてしまった」

「そうか? 幼馴染だから、異性として見たことがなかったなあ。まあ、顔立ちは綺麗な方だと思うけれど。さっちゃんのレベルなら東京に腐るほどいるだろう」

「いや、いない。あんな澄んだ瞳の女はいない。鼻筋もスッキリしていて、二重の大きな目。白過ぎない肌。完璧じゃないか。あんな女が幼馴染だなんて、俺もこの村で生まれたかった」

「熱弁するなあ。珍しい」

「ああ、身体が火照っているよ」

 健斗は軽快にステップを踏んだ。大輔は健斗の後ろ姿を見ながら笑った。

 リビングのテーブルにて、大輔、健斗、大輔の父母は夕飯を囲んだ。母は来客のため、手の込んだ料理を作った。大輔が四人のグラスにビールを注いだ。

「乾杯」

 四人は冷えたグラスを重ね、並ぶ料理を食べ始めた。

「健斗さん、遠慮せんで下さいね。いつも大輔がお世話になっとります」

 父が健斗のグラスにビールを注いだ。

「いえいえ、僕の方がお世話になっていますよ。大輔は僕と違いまして、勤勉なんですよね。この前もレポート見せて貰いまして、お陰様で、その講義は楽々単位を取ることが出来ました」

 健斗が大輔のグラスにビールを注ぐ。

「あれは、好きな講義だったからな。詰まらない講義も多くて苦労するよ。そうそう、さっきね、さっちゃんに会ったよ。さっちゃん、ここから通勤してるんだね」

「さっちゃん。さっちゃん・・・あ、あの咲子ちゃんね。柏木さん宅の」

 母が手をポンと叩いた。父も、記憶と咲子の素性が一致し、眉を動かした。

「そう。数年ぶりの再会で、びっくりしたよ。さっちゃんは、市内の高校に行ってしまったからね。中学卒業以降、殆ど会っていなかった。それでさ、さっちゃん、介護施設で働いているんだって」

「咲子ちゃんも、色々あったけんね」

 母の声色が変わった。父は、空になった自分のグラスにビールを注ぐ。健斗の目つきが変わった。

「何々?」

「えっと、幼馴染の貴洋くんと結婚したばってん、貴洋くんの暴力で、今は別居しとるらしかと」

「え、貴洋くんって、あの貴洋くん?」

 大輔は驚き、口に含んだビールを吹き出しそうになり、右手で抑えた。

「そうたい。あんたの幼馴染の貴洋くん。子供の時、仲良く遊びよったたい」

「へえ、貴洋くんが、さっちゃんとねえ。それに貴洋くんが暴力をふるうなんて、ちょっと考えられないなあ。それで、貴洋くんはどこに住んでいるの?」

「わからん。この村じゃあなか。私も噂で聞いただけやけんね。大輔、こんことは、内緒だけんね。絶対に」

「ああ、分かっているよ」

 大輔は小声で返事をした。

「なんか、東京の面白か話はなかと?」

 母が高い声色で話題を変えた。湿った空気が億劫になった父は、芋焼酎を飲み出した。

「大学の話をしましょう・・・」

 健斗が学舎や教授の話を始めた。

 大輔はビールを飲み干し、空っぽになったグラスの中を覗き込みながら思慮に耽る。幼馴染の男の子の、貴洋についてだった。中学から疎遠になり、高校は、咲子と同じように市内の高校へ進学したことまでは、風の噂で聞いていた。その後については、知らなかった。興味もなかった。貴洋との関係は、小学の時の秘密基地で、すでに完結していた。もしくは、完結させたかったのだろうか。今、貴洋がどこに住み、一体何をしているのだろうか、と想像していると急に胸が苦しくなってきた。

 健斗が東京の話を繰り広げ、夕食を終えた。母がテーブルを片付け始めた。父はテレビを点け、ニュース番組を見ていた。

「健斗、部屋で飲もうか?」

 大輔の問いに、健斗は頷く。大輔が棚からグラスを取り出し、氷を入れた。
「飲み過ぎないでよ」

 母が二人へ釘を刺した。

 窓を開けて、畳に座る。大輔は、東京から買ってきたバーボンをグラスに注いだ。窓から流れ込む冷めた風が、バーボンの香りを部屋中に散りばめる。

「いい香りのバーボンだなあ。俺たちも大人になったもんだ」

 健斗がグラスに鼻を近付け、香りを楽しむ。

「このバーボンは高級なんだぞ。では乾杯」

 二人はバーボンに酔いしれてゆく。

「うーん。大人の味だ。深みがあって、コクがあって。まあ、よく分からないけれど」

 健斗はグラスを左右に揺すって、溶けゆく氷を眺めた。

「でもさ、さっちゃんって、貴洋って男と結婚していたんだ。ちょっと残念だなあ。独身だったらよかったのにさ」

 健斗は寂しそうだった。

「俺も、全く知らなかったから、驚いたよ。あのさっちゃんがなあ。そして、貴洋くんが女に暴力なんて、ちょっと信じがたい。あの貴洋くんがなあ」

「頻繁に口にしていた、幼馴染の貴洋くんだろう?」

「うん。幼馴染で唯一の男の子。中学に入るまでは、ずっと仲がよかったんだ」

「何故、疎遠になったんだ?」

「何故だろう。はっきりとは覚えていない。おそらくは、俺と貴洋くんの世界が別れてしまったのだろう。中学生になると、自我が芽生えてくるだろ。その自我が俺らを引き離してしまったんだ。また、会って話をしたいなあ。今なら、何でも話せる気がする。あの頃のようにね。どこに住んでいるんだろう?」

「帰省中に、貴洋くんと会えると良いなあ。俺はさっちゃんと会いたい」

「お前は、さっちゃんに入れ込んでいるなあ」

「さっちゃんに会った時に、ビビっと背筋に電流が走ったんだ。俺は、暴力は振るわないぞ。男だ。『義』を重んじる男だ」

 二人の賑やかな声が、庭先まで漏れていた。

 大輔は壁に凭れ掛かりながら空を眺め、夜がこんなに暗く、夜がこんなに明るいことを初めて知った。目の前には、地の淵に落ちてしまったような漆黒の闇に、無数の星々が散らばっていたのだ。東京と空が繋がっているはずだが、本当に繋がっているのだろうか、と懐疑的になる。全てが違う。決して優越は付けられない。東京のくすんだ夜の下では、吉田が戦っているのだから。亡き友のため。

 健斗は棚から本を取り出し、読書に耽った。大輔はオーディオプレーヤーからジャズを流した。新宿にあるBARの雰囲気が出るだろうと思ったが、卓袱台上のバーボン以外は、似付かなかった。

「明日は何をする? 行きたいところある?」

 大輔が問い掛ける。

「そうだな。時間はたっぷりあるから、海沿いをドライブしても、虫取りでも、魚釣りでも、海水浴でも、何でも良い。さっちゃんと遊んでも良いなあ」

「分かった。計画しよう」



続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。