『義』 -遥香と別れ (前半) - 長編小説
遥香と別れ (前半)
「ねえ、聞いているの?」
遥香は語気を強めた。蘇る記憶で恍惚となる大輔は、瞳にうっすらと涙の膜が覆い、散漫となっていた。すると、いつの間にか、グラスが空になっていた。ウェイターにアイコンタクトを取り、ワインを催促する。ウェイターは無音で赴き、ワインを注いで去った。
「ねえ、聞いているの?」
「ああ、聞いている」
「私はね、大輔と別れたいの。もう、レストランを出ようよ。特に、話すことはないわ」
「理由を聞かせてほしい。死に物狂いで働いて、やっとこの日を迎えることが出来たんだ。もし、不満なことがあるなら全てを改善する。俺が、どれだけ遥香のことを思っているのか、分からないだろう。はっきりとした理由を聞かせてほしい」
「理由を聞くことで、大輔は救われるの? 私は救われるの? そういった質問って無意味だわ。一円にもならない」
遥香の冷淡な口調は、揺るぎない。
「その言い方は、ひどいと思わないかい? やっとお金を貯めて、一年目の記念日を楽しもうとしている時なのに。大事な日、こんな上品な場所で、別れを切り出される俺の身にもなってほしい」
激昂したい気持ちを抑えた。いや、激昂したい気持ちはレストランの雰囲気にて、押し潰された。遥香の表情は一切動かない。ワインにて桃色に染まった頬が、まるで仮面のようだった。
「別れを切り出すタイミングは、自由じゃないの? じゃあ、例えば一ヶ月前に『記念日に行くレストランで、別れ話をするから待っていてね』と言うと、嬉しいわけ?」
「そんなわけではない。でも礼儀ってものがあるだろう」
「礼儀ってねえ。そもそも、男女の関係に礼儀なんてあったかしら? 大輔は私の裸を見て、性欲が沸き立つかも知れないけれど、私は皆無。寧ろ、目を覆いたくなる。プレゼントを色々と貰ったけど、女の子って流行が変わるから、貰ったものは次期にゴミになるの。プレゼントを渡すことがステータスだと思って、思い上がることが男の礼儀なの?」
遥香は周りの席に漏れないように、突き刺さる言葉を繰り出す。
「ひどい。ひど過ぎる。いつからそんな女になったんだ。なあ?」
「好みが変わったんじゃないかな。私はね、すらっとした男の子が好みなの。大輔は違うでしょ。自分の顔と身体を見たら?」
遥香は目を細めて、嫌悪する対象を侮蔑する尖った目差しを放つ。口元がにやりと反り上がる。喉に引っかかった魚の骨が取れた時のように痛快に、思い詰めていた感情を解き放った。
遥香の直視に耐えられなく、大輔は右手で顔の半分を覆った。小指に小鼻の凹みを感じる。人差し指と中指にて、上目瞼の深い窪みと太い眉毛を感じる。親指では、耳のゴツゴツした形状を感じる。掌が、顔を出し始めた髭のざらつき感じる。手で感じる部位のそれぞれに辟易し、顔から手を離し、腕を組む。膨らんだ胸板を感じる。二の腕も太い。屈強なボディービルダーとは言えないものの、運動を好んだ肉体は、無駄な贅肉は削ぎ落とされ、折れることを知らない太い骨が、しなやかな筋肉の基礎となる。この日のために新調した、ヨーロッパ製の青と白のストライプ柄のシャツが、筋肉の圧を受けて張っている。店員に選んでもらった一品のため、決して不恰好ではないだろう。
「なあ、もう一回考え直してくれよ。こんな終わり方はないんじゃないか」
「虹を追い掛けるような、不毛な会話はやめよう。私の心は決まってしまったの。ここの代金を半分支払ったら気が済むの?」
遥香はバックから財布を取り出した。
「いや、ここは俺が払う。俺が予約したわけだからな。店を出て、外で話そう」
遥香は財布をバックに戻した。
大輔はウェイターを呼び、数枚の万札を渡す。有限の時間を削いで手にした貴重なお金が、瞬く間にどこかに消えてしまった。すると、金への執着なのか、地震が起きたよう感情がぐらぐらと揺れる。盗賊のように見えるウェイターに怒りを感じるも、高貴なレストランで悪態をつくわけにもいかず、グラスに張り付いたワインを飲み干す。数滴のワインが舌の上を踊りながら、喉の奥へ転がっていった。醜いワインだ。
レストランを出て、エレベーターにて地上へと下降する。無言の空気が重苦しい。地上を突き抜けて、地底奥深くまで輸送してくれないだろうか。もし輸送してくれるなら、きっと、マントルに溶け込んだ鉱物と一緒に、遥香ともベッドで抱き合った日々を蘇生させるように溶け合い、乖離しつつある関係すらも和解出来るのではないだろうか。対面の壁に寄りかかる遥香の顔を見た。遥香は瞼を閉じ、地上へ降り立つ時間を数えている。白い華奢な指先には、携帯電話が握られていた。牧師が十字架を持つように・・・。
続く。
長編小説です。
文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。