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中卒だった頃の自分、今の自分⑧

こんにちは、ハナチェンコです。⑧です。

8. 専任教員時代(1)

「課程博士」

2000年9月に、5年間(正確には5年半)在籍した大学院を無事終えました。「博士後期課程単位取満期退学」で。33歳になっていました。

「え?また退学したの?草」とか言われそうなので説明すると、当時の文系大学院の博士後期課程はこれ(=単位取得退学)が普通でした。修士課程の場合は修士論文を書いて口頭試問等に合格すると「修了」になるのですが、博士後期課程の場合は同じように博士論文を書いて口頭試問等に合格し「修了」とは普通ならなかったのです。で、「修了」でないと「(単位取得)退学」となります。

そもそも当時文系の大学院の先生で博士号をお持ちの先生は当時非常に少なかったのです。言い換えると、文系分野で博士論文を書き博士号を取得していたのは、ほぼ「大御所」に限られていました。いわゆる「論文博士」(研究者としてのキャリアを積んでから、人脈等を辿り希望する大学に博士論文を提出する。なお博士論文提出先は出身大学院とは限らない)というやつです。

ただ私が博士後期課程を出るちょうどその頃はこの辺りの過渡期で、お上の指導で「文系大学院も課程博士を出す方向で」となり始めていました。「課程博士」とは、修士課程の場合と同様に、博士後期課程在籍中(または単位取得退学して3,4年のうち)に博士論文を出身大学院に提出して博士号を取得する形のものです。つまり「博士後期課程(の『単位取得退学』ではなく)『修了』を推進しなさい」ということです。

私が博士後期課程を単位取得退学する際、先生方に「課程博士出してもいいよ」とおっしゃっていただきました。単位取得退学後3年以内に提出、の期限付きでした。ただ博士論文は当時出版の義務がありました(今はネット上での公表の義務に変わっているようです)。要するにそんな短期間で書き上げるようなものではありません。なので、いったん単位取得退学し、その後3年以内に博士論文を提出しようと「決めました」。

なので「よーし、やったるで!」とばかりに、ザザッと書いた課程博士論文計画書を持参し

3年以内に必ず書き上げます!

と宣言してしまいました。えーと、それから20年以上経過しました。当然のごとく当時の先生方はもう大学にはいらっしゃいません。お前そういうとこやぞ、ですね...。

もはや(課程博士はとっくに期限切れなので、よりハードルの高い)論文博士をゼロからやり直すしかないのですが、とりあえずまだ全然諦めてはいません。ただそのためにはまずは原稿書かないと、ですよね💦。

2002年春、35歳で初めて大学の専任教員となる

博士論文はもちろん重要ですが、それ以上に重要なのが「食い扶持」つまり就職です。運がいいことに2002年開学の新設大学に呼んでいただきました。声をかけていただいたのが2000年秋頃だったので、赴任までは短期バイトなんかをして過ごしました。なおこれがかなりの地獄でしたが現存する新聞社なので詳細は割愛します。

赴任先の大学は山口県にありました。なので引っ越しが必要になります。きっかけ的にここしかないと思い結婚しました。妻と一緒に山口県に引っ越しました。アパートは大学側が斡旋してくれました。今考えてもほんといい所(新築だったし)でした。

福岡(市内)から山口へ引っ越すことを知った周囲の人たちは私に「絶対車の免許を取った方がいい」と説得してきました。こういう生き方をしていたので、車の免許はおろか、原チャリの免許すら取る事なくいた訳です。ちなみに当時自転車も持っていませんでした。

が断りました。私は病的な方向音痴なのでたとえ免許を取れても役に立たないと思ったのです(今の勤務先に来て8年過ぎましたがまだ一部構内で迷います)。

これが大失敗でした。福岡だったらバスや電車がめちゃくちゃ通っているのでそれでどこでも行けます。「似たようなもんだろう」と考えていた私がバカでした。

結局、妻に車を出してもらい出勤することが日課になってしまいました。

2002年春に着任した新設校は居心地良かったです。なんせ初めての専任です。張り切りまくりました。学生も素直でやりやすかったです。

なんかいい事ばっか言ってるようですが、実はいろいろありました。詳しい話は伏せますが、赴任中にあまりに色々な事が起こったので、以後大抵の事に耐えられるようになりました。学生指導上の話です。ただある時気がついたら、後頭部が円形脱毛症に冒されていました。あれってストレスを受けた自覚があまりなくても起こるものなのですね。

新設大学なので、初年度は1年生しかいません。なので我々教職員も協力しつつ、サークル立ち上げからいろいろと、学生と一緒にやりました。楽しかったです。

ドラムにまた触れだす

私は軽音学部の顧問になりました。若い時バンドをやってたからでした。ドラムをやめて20年近く経っていましたのでやや不安でしたが、高校と違って大学のサークルの顧問は名前貸し程度だろ、と軽く構えていました。

部員は結構集まりました。しばらくして部室兼スタジオも作ってもらいました。みんな学園祭のステージで演奏するのを楽しみにしていました。

と、バンド結成から「あぶれた」部員がいました。曰く

メタルやりたいんだけど他にやりたいって言う部員がいないんです...

私が若い時やってたバンドのジャンルもメタルだったので、じゃあ一緒にやろうぜ、と久々にドラムに「触り」ました。彼はボーカルだったので、あとギターとベースが不足してます。と、当時教務課にいた職員さんがV系バンドのベーシストとしてかつてご活躍だったの聞きつけ、無理から引っ張り込みましたw。当初は迷惑だったはずです。その節はすみませんでした。

ギターは社会人学生で腕が立つ人が複数人いたので、その都度彼らに頼みました。

私がバンドをやってる時はまだ「ツインペダル」など市場に出回っていない時代でした。

まさに浦島太郎状態で、ゼロから始めました。ただ、以前のように週3回練習などとはもちろんいかず、学園祭を含め年2,3回程度ライブをし、その前後だけ学生たちと一緒に練習する「ゆるーい」感じでした。それでも久しぶりにバンドやるのは楽しかったです。楽しかったですし、こういうところでかつてのバンド経験が生きてきたのがほんと意外でした。「無駄なこと」ってないんだなぁ、と実感しました。

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後で知ったのですが、部員の中には、その後インディーズシーンで有名になったり、メジャーアーティストに楽曲提供するほどのレベルにまで到達した人もいました。今もご活躍中です(上の画像は2005年の学園祭だったと思います。もう40歳直前ですね笑)。

この大学があった地域はそれまで住んでいた福岡市内に比べたら確かに田舎ではありましたが、「ひと」はほんと暖かくいい思い出しかありません。当時学長や副学長に横着な口を利いたりしても、嫌な顔はされましたが、その事で以後私の立場が危うくなるなどという事は一切ありませんでした(それにしても相当横着な物言いでした。今は反省しています。その節はすみませんでした)。先に書いた通り学生も素直で、私に対しても怒る時はストレートに怒り、ぶつかってきてくれました。

研究に専念する日々

この時期は研究上最も活発でした。九州地区の学会、全国規模の学会には毎年エントリーして発表し、人の発表に「しつもーーーん!」しまくり、自ら研究会を立ち上げたりしていました。この研究会、関東および関西地区の著名な研究者にも参加して頂いたもので、今考えると錚々たるメンツでした。キャリア的にもおおよそ私より「上」の方々ばかりでしたが、勢いでお願いしたらみなさん快諾して頂き、毎回熱い議論を戦わせていました。あぁ懐かしい。

この歳(半世紀以上生きています)になるのにまだ単著がないのはお恥ずかしい限りですが、活発に研究活動をしていたこの頃から共著のお話をいくつか頂くようになり、その都度大喜びで執筆していました。

最初にオファーが来たのは2001年5月刊行のこの本でした。

大学院生用紀要の査読をご担当の先生が、その時の私の論文(1999年発表)を評価してくださり、こちらの企画にも誘っていただきました。初めての商業出版物でした。『図書新聞』等でも紹介もしていただきました。

なおこの本の編集をご担当してくださったのは昔気質の名物編集者で、福岡にいらした際になんどか飲みに連れて行っていただきました。その際何度も言われたのが

花野さんは今34歳でしょ?40歳までに単著を書きなさい。そこから世界がひらけてくるから

というものでした。ええと、(以下略)。私の力不足にてほんと申し訳ありません...。

この本で書いた論文は方々で評価していただけるとともに、その数倍、方々で批判もされました。今だったらこういう論文は書きませんが、当時はこういうのを書きたかったのだと思います。当時は真っ赤な顔してw批判の一々に応答していました。

この本以外で当時思い出深いのは2冊あります。1冊目はこれです。

もう絶版ですが、それにしてもマケプレの売値が笑。

これは確か、当時私がやっていたブログ的なものをご覧になった編集者の方からお声掛けいただいたように記憶しています。とりあえずタイトルにのけぞりました。その次に執筆陣の豪華さにのけぞりました。その末席に入れていただけるだけで光栄でした。

書いたのはわずか1項目、文字数も規定では2000字程度だったと思います。印税方式でなく「原稿料」という形でいただきました。その際、張り切り過ぎて4000字ぐらい書いてしまいました。だってパーソンズなんだもん。あんなに業績が多い人の紹介を2000字じゃ無理です、みたいに言ったのを覚えています。

後日通帳を見たら、当初言われていた倍額が入っていました。文字数に応じた原稿料だったのでした。編集者の方はきっとムッとされていたと思います。その節はすみませんでした。

この時期思い出深いやつの最後は、大学院時代の先生が編者になった大学授業用のテキストです(2003年刊行)。

私は最初の章を担当しました。ただなんかこの時急に思い立って、編者の先生に

僕、教科書の組版(レイアウトその他の配置、索引作成等)をやりたいです。やらせてください。

と申し出て、その通り全部やらせていただきました(表紙カバー等は除く本文)。ちょうどLaTeX(組版処理システム)にハマっている時だったのです。出来上がりを見たら一部レイアウトが崩れていて崩れ落ちましたが、それでもとてもいい経験になりました。この時の経験が生きて、今年度、勤務先の学科の卒論抄録集を久しぶりにLaTeXで組版しました。20年近くぶりに扱うLaTeXでしたが結構覚えているものですね。またハマりたくなってきました。

「18年ぶり4度目」

結婚・初めての専任教員・学生との楽しい日々・研究上も充実 という事で、トラブルは(上述のように)まあまああったのですが、それもギリ許容範囲内で、順調に行っているようでした。

ただここで家庭の問題が起こりました。家の中の事なので詳しくは書きませんが(妻にバレるとウエスタン・ラリアットものです)福岡に帰った方が都合いいような諸事情が生じてきたのです。加えて私も「そろそろ福岡に帰りたいなぁ」と思い始めるようになりました。こんな飽きっぽい私が初めて行く土地でよう続いたな、と。

思い切って退職しました。2009年春42歳、就職して7年経っていました。なので「石の上にもなんとか」はクリアしていました(そういう問題ではないが)。周囲は「や、辞めるの?」と驚いていましたし、一部からは「実は何か問題を起こしたのではないか」と邪推されもしました。

問題?起こされた事は数知れず、でも俺が起こしたことなど一度もないわ!

という事で、18年ぶり4度目の「中退」になってしまいました。

...もうちょっとで終わりです。次回は福岡に帰ってから今までで、多分(このテーマでは)最終回です。今回もお読みいただいた方がもしいらっしゃったら、本当にありがとうございました。






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