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「風姿花伝」と、現代の文化芸術のこと

先日、「風姿花伝」読書会に参加しました。断片的にしか知らなかった「風姿花伝」を(理解度はともかく)読めて良かったです。現代に創作をする人間にも響くところが多く、「それ、室町時代からそうなの!?」というところもあり、ちょっと勇気が湧きました。

まず、何よりも大切とされている「花」。この解釈をめぐっては様々な議論があるようですが、いろんな言葉が当てはまる気がします。「美しさ」「魅力」「芸術性」「面白さ」「深み」…などなど、各章にそれぞれ当てはめると意味が伝わる。が、あまり現段階では軽く「分かった」気にならないようにしようと思っているところです。

さて、私は地元で小規模な演劇をやることがあるのですが、第五「奥義云」は、現在のアートと観客をめぐる諸問題にもぴったりと当てはまるものがあり、600年前のあの世阿弥さんにも容易に解決しえないことだったと、とても心に刺さりました。その第五「奥義云」について書いておこうと思います。

「風姿花伝」は基本的に秘伝なので他に見せてはならないのだけど、このままでは芸道が廃れてしまうのを危惧して記しておくのだと書かれている。作り手・演者は修練を積み至高の域に達するのだが、それを目利きの観客は良さを見抜いて称賛するが、そうではない人々には理解できないことが起こる。(ここの書き方はとても辛辣で難解なアートは良く分からない私もちょっと傷つく^^;)

世阿弥さんは、真に芸を体得した人ならば、目利きの人にもそうでない人にも面白さを提供することができる、としている。それは今なら、作り手としても観客としても「100いいね」押したい言葉だ。洗練された芸術に対して目利きではない田舎や遠国の人の前で演じる時にはその人たちが楽しめるようにするのも大切で、父観阿弥はそれができた人だったそうだ。しかしながら、そうでない場合があるという。次の一文だ。

「たとい天下に許されを得たる程の為手も力なき因果にて万一少し廃るる時分ありとも、田舎遠国の褒美の花失せずば、ふつと道の絶ふる事はあるべからず。道絶えずば、また天下の時に合う事あるべし。」

アーティストがどれだけ努力しようとも、時世という抗い難い因果によって、廃れてしまうことがあるのだという。ここでは演者個人の宿命に託して語られているが、現在の文化芸術全般をめぐる世の中の厳しさは、まさしくこのようではないだろうか。文化芸術は、洗練されていて一般人にはやや難解なものから、人気のエンターテイメントまで幅広く存在し、私はその中間の果てしないグレーゾーンも含めてどれもが大切で存在意義があると思っているものの、それを世の人全てに理解してもらい、維持発展に協力してもらうには厳しい時代である。芸術の尊さをアーティスト自身が語らなくてはならなくなり、それがますますアートに対する反感・不要論を強めてしまう悪循環が存在している。

世阿弥さんのこの一文は、そんなアーティストやアートファンの絶望に、解決は示さずとも、600年前からそっと寄り添ってくれるような言葉のように思える。逆風は厳しくとも、あきらめず細々とでも真摯に続けていれば、また世の中の流れに合致する時が来るよ、と。

私は芸大で学んだわけでもなく、一般人が好きでやっているだけのインディーズ創作者であり、ましてや評価されているわけでもなく、文化芸術の逆境に対して有力な手を打つ力があるわけでもない。それでも、「田舎遠国の褒美の“花”」の一人になれることはあるかもしれない。なんせ600年前から世阿弥さんですら解決できない問題である。小さくとも歩んでゆくことは諦めずにゆきたい。

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