「ゴボーを持ちながら」創作ノート
非劇場という空間で
KAVCアートジャック2018という複合施設のアートイベントにて、ロビーという空間で上演された短編劇。“劇場ではない場所でパフォーマンスを行う”ことについて、考えたことをレポートします。
(とっても気負った長い文になってしまいました…。今後はもうすこしソフトにやっていきたいです。)
◉上演記録
http://hanasaku-lab.com/pf/mittsunohanawa2018/
劇場と非劇場
昨今は、劇場ではない空間で行われる演劇が増えています。私もかつて、カフェや、旧小学校の講堂、お寺のお堂など、いわゆる「劇場」ではない場所で行われる劇の創作に関わってきたことも多々ありました。
劇場は言うまでもなく、音響、照明、舞台美術を場内に設置し、日常空間からは閉ざされた場所で、劇の世界に没入できるような設備が整った「劇を見に来るための場所」としての利便性があります。もともと閉鎖空間なので、外部の音や光を遮ってその場を劇空間にする必要はなく、整った設備の中で自由な劇の世界を作ることができます。照明や音の変化により、ここがどんな場所でどのぐらいの時間が経過したのか、現実とは離れた劇の世界を作り出すことが可能です。
劇場でない場所で劇を上演するということは、そのような劇空間として区切られ閉ざされた場所とは違い、日常空間・日常時間に対してオープンな場所であるということです。そこでは、まさにその場所、その時間を生かした劇を行うことで強みが増します。いわば、劇場でわざわざ設置しなくてはならない音響・照明・美術が、日常空間という場所ですでに設定されているのです。
非劇場での演劇をすることの効果
日常空間で劇をする最大の良さは、「気軽さ」にあると思います。もちろん創り手側にとって作品のクオリティをあげるのに、劇場でも非劇場でも緊張感は変わりません。むしろ、劇場で作り込める演出効果という補助が無いぶん、創り手はお客さんに劇の世界に集中してもらうための気遣いがより必要になる場合がほとんどです。それでも、日常空間での劇は「気軽さ」を感じます。それはおそらく、客席との関係です。劇場という閉鎖空間に入場するお客さんは、「ここから劇が始まるぞ」という「気負い」を持って入ってこられるわけです。そこでは、お客さんは「劇のお客さん」という役者になるようなものです。日頃劇を見ない人が足を踏み入れるには少し気を使う、アーチスト空間とも言えるものです。その点、日常空間ではお客さんは普段の自分のままで劇を見ることができます。お客さんが劇をどういった立ち位置から見ているのかは、劇作品の成立におおいに影響するものです。非劇場での上演は、お客さんに「普段着の精神で」見てもらいたい作品を上演するのには適しています。
また、「どのようなお客さんに来ていただくか」についても、非劇場ならではの長所があります。たとえばカフェを貸切って劇を上演する場合、演劇をあまり見ない友人に「こんなオシャレなカフェでお芝居をするから、お茶飲みがてら来てね」などと声をかけられる宣伝効果があります。またそのカフェを普段使っているお客さんが店内のチラシに興味を持って来てくれる可能性もあります。つまり客層に対してもシームレス。客席とステージ、そしてその先の日常に対して、オープンでシームレスな、それでいてグラデーションな区切られ方をした演劇空間であるという不思議さが、非劇場で劇をすることの最大の魅力と言えるでしょう。
劇場の条件は“人”
非劇場での劇は、オープンでシームレスであるということを述べましたが、それでも劇である限り、たとえ曖昧な境界でも劇空間であるための最低条件があると考えます。それは、「お客さんが劇を見に来ている」ということです。ある空間があって、役者が出て来て、そこで演技をする。そしてそれを「これは劇だ」と認識し、「見よう」という意思を持って見ているお客さんの一団がいる。お客さんにその意思が無いならば、それは劇ではなく、単に役者がなんらかのアクションをしている状態です。劇をしている役者と、劇を見ている意識のあるお客さん。劇場であれ非劇場であれ、それさえあれば「劇」として成立します。となると、その場所を劇空間とその外側とに分けるものは、見る人の意識によって区切られるということになります。劇場の条件は、本質的には「人」であるといえます。
非劇場を劇場にする難しさ
今回の劇は、複合施設全体を使用したアートフェスティバルの一貫で上演されました。劇場はもちろん、リハーサル室、ギャラリー、はては階段室で、各アーチストが作品展示やパフォーマンスを行いました。お客さんはその施設にアート作品や劇を見ようと入場券を買って入って来るのですが、施設内の行動は自由です。作品の中には、入場券の他に整理券が必要な作品もありました。劇や演奏など、上演時間や場所が区切られた作品は、多くがそのような形を取っていました。
私たちの上演した「ゴボーを持ちながら」は、施設1階のロビーの一角で上演されました。観覧に整理券は無く、ゆるやかに椅子が並べられアクティングスペースができていて、そこに座って観覧しても、通りすがりに眺めてもOKという雰囲気。その場所は、普段は来館者が無料で利用できるコミュニティスペースで、いくつかの机と椅子があり、飲み物の自動販売機、アート関連の様々なチラシのラックが置かれている情報コーナーでもあります。2階のホールのホワイエに上がる階段のある吹き抜けの空間、全面ガラス張りの窓が道路に面しており、一角に食堂が設けられています。本番当日は全館あげてのアートイベントだったので入館に入場料が必要でしたが、食堂は通常営業しており、その一角のみは外部の人も出入りして利用できるようになっていました。昼の上演時間は食堂利用者も多く、休日だったので親子連れもいて、なかなか賑わしい状態。遊園地の一角で始まる大道芸とよく似た雰囲気です。その場にいる人々は、そのパフォーマンスを見ようと集まる人と、他の目的や通りすがりの人も入り混じっている。劇に集中するのはまだ難しいお年頃のお子様もいる。
つまり、パフォーマンスが始まる段階まで、劇の成立条件である「人」の区切りが限りなく曖昧な状態からのスタートということになります。私たちも初めての経験ではあったもののそのような状態は想定しており、まずは「劇への入り口を作る」ということに取り掛かりました。上演時間になると、役者は楽屋からロビーに出る扉を開き入場し、メインのアクティングエリアに到着するまでに遭遇するお客さんや他のアーチストと非言語コミュニケーションをとりながらやってきます。そしてアクティングエリアに到着後もしばらくは客席と非言語コミュニケーションをとりつつ、劇の始まりへと誘導します。そして、非言語コミュニケーションであった2人のやりとりが、あるきっかけで会話劇へ転換します。この挑戦は、今回の役者2人の力量が優れていたこと、衣装など美術面で目を引くものがあり、ある程度成功したと思います。が、もちろん上演回によってどの程度お客さんを劇へ引き込めたかの濃淡の差は出ました。私たちが考えていたよりも、やはり環境にかなり強さがありました。
環境はある程度想定するものですが、もちろん初めての試みですし100%は不可能です。環境の強弱というのは、創り手が、お客さんに劇へ集中してほしい度合いがどの程度である作品を作ったかが問われるものです。環境に対して対応しやすい、あるいは環境に左右されない、環境が変わっても見え方が変わるだけで質は落ちない、といった作品であれば、そこを劇空間にするための必須条件は下がります。
今回の反省点のひとつは、私たちは当初の構想以上にこの作品を「演劇」に寄ったものにしていたことです。やはり実際に上演してみると、もう少しこの空間に「劇場」になってほしい。つまり、お客さんにとって今少し現実の環境からこちらの劇世界に注目できる状態になってほしいものであったと実感しました。それにしては、環境の個性の方がかなり勝っていました。となると、空間を「劇場」にするための力量は上げていかなくてはならないことになります。お客さんに注目してもらいたい程度が10の作品で、その場所が想定していた7~8の環境ではなく3~4の環境であるなら、「劇的さ」の出力を変化させる必要に迫られます。
私たちは「劇」を作ってしまう
経験豊かな役者の対応はかなりの効果をあげました。環境に対応し「劇的さ」の出力をその場で調整し、観客へのコミュニケーション方法にも工夫が生まれました。その反面、劇作品から感じ取ってもらいたい雰囲気は変化を迫られたところもありました。もちろんそれによって結果的にお客さんの受け取るものは、質の変化はしたものの、レベルが落ちたわけではありません。が、もう少し環境の影響から逃れ、劇世界への集中が上がれば感じ取れた繊細さは切り捨てにせざるを得ませんでした。
そして改めて演出として感じたことがあります。それは「役者は演劇がしたい人々である」ということです。何を当然のことを言っているのかと思われるでしょうが、本当に、役者は「演劇がしたい」のです。これは役者が役者である以上、劇の本番で感じる手応えを求めた出力をする、という、もちろんとても素晴らしい力なわけですが、実は演出効果の計算に入れておくべき最大の要素ではないかと思った次第です。この「役者の本番仕様」を発揮した場合に最高のパフォーマンスが出せる環境を作れるか、青写真を描けるかは、演出の仕事なのです。これについては、まだ私ははっきりした反省を持ち得ていません。いずれ考えをまとめるべき課題です。
今回の環境が、劇というよりは遊園地の大道芸を見るのに適した環境だったのであれば、もう少し作品を「大道芸であり、劇要素のあるもの」に寄せる選択をするのが良かったのかもしれません。もしくは、「集中して見てもらえなくても良い、いやむしろそれが前提で成り立つアート作品である」というコンセプトを貫く方法もあったと思います。あくまで、「通りすがりパフォーマンスである」と設定した上で作品の構想に取り掛かるべきでした。というより、そちらに寄せていたつもりが、やはり「劇」を作ってしまったなという感想です。作りたい作品がそうであったことは致し方ないのですが、私たち演劇創作者は、自分が思っているよりもかなり「劇」を作りたい人々である、という自覚が必要です。私は、個人的には「演劇に限らない創作者」と自分で自分を規定していますが、やはり演劇を作っていると、見る人に「演劇を見て欲しい」と思ってしまうようです。今後の、演劇という枠にとらわれない作品作りのためにも、貴重な自覚の機会となりました。
同じ場所で行われたパフォーマンス
今回のイベントで、同じくロビーでパフォーマンス作品を発表したアーチスト「ゼロコ」さん、「アンサンブル・ゾネ」さんがありました。
ゼロコさんは、手品や大道芸・マイムの手法を使って客席を巻き込みながら非言語コミュニケーションでシーンを作るもの。ベンチを四方に囲んで物理的にも劇空間を作り、またお客さんを大胆に巻き込み、巧みなアイスブレイクで見る人を惹きつけるものでした。アンサンブル・ゾネさんは、コンテンポラリーダンス作品。数名のダンサーがロビー階から階段を登って2階ホワイエへと踊りながら移動してゆく面白い動線の作品で、見る人は身体の美しさに惹きつけられ、ダンサーと一緒に移動して観覧するというものでした。
この2作品は、やはり環境に対する強度が非常に優れている作品であることが特徴だったと感じます。そして、主なツールが言語ではないということ。言語を使わず人を惹きつける基礎的な技術力の高さがあることはもちろんです。これは、環境を100%想定できない場所ではかなり重要です。たいへん勉強になる素晴らしいパフォーマンスでした。(もちろん、当のアーチストさんはそれぞれ別に思うところがあったかもしれないですが…)
「ゴボーを持ちながら」はどこで行われるべきだったのか
こうした演劇の本質に対する発見や反省がたくさんあったこの上演でしたが、他に行われるべき最適な場所があっただろうか、と考えると、やはり本番通りの場所が良かったと、今のところは考えています。これを見ようと気構えて来る方ばかりではないオープンな場所で「劇が始まるので見たい人はどうぞ」の精神は、やはり今作品では重要なコンセプトでした。もしも劇場で行うなら、映画の短編の同時上映のように、他の劇団さんの上演との抱き合わせで行われても面白かったのかもしれません。「これを見に行こう!」という精神にはいまいちそぐわない。でも「何かを見よう」としているお客さんが常にいる、というような環境であれば、最適だった気もしています。
終わりに
演劇(とはいえないかもしれないパフォーマンス作品)、それにふさわしい場作り、環境の想定。今回の貴重な機会により、作品を作る上で考慮するべきたくさんの課題と、可能性を積み重ねることができました。この経験が私にも、他の創作者の方にも生きればよいなと思います。
改めて、作品に関わってくださった方々に感謝申し上げます。