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「文化教育の負け仕草」
最近、物作りや表現活動そのものの表現が多い。
自己顕示欲が強ければ売れる時代になってしまったことによる弊害に見えるが、おそらくそうではない。
視線を教えられていない者たちが現場にいるからだ。
なぜピカソがゲルニカを描いたのかという問いではなく、ゲルニカを描くと有名になれるという視点しかない。点で停まっているから世界が広がらない。
ドイツ空軍による無差別爆撃を受けた1937年に描いた絵画で、スペインの内戦の悲惨さを描いているわけであって、なにもないのにあれだけ大きな絵は描かない。
ここがわからないから、人間の描写も世界の描写もどんどんつまらなくなっていく。
それを誰もがわかっていながら、なぜか現代の創作している者たちは表現の表現という入れ子構造をやりたがる。批判を受けたくないからだろうか。
表現者なのに?
かくいう自分も異世界で学生ラジオ局を作る話を書いている。だが、ただラジオ放送を丁寧に書いているわけではなく学生生活を中心に書いている。なにが社会で起こっているのか、世界中からやってくる学生たちの生活はどういうものなのか、人間と生活について、差別や社会意識について書いている。
自身の内面を描きたいというのは、単純な精神医学的な理由からではないのか。内面を吐露することによって、信用されたいという欲望なのか。
宮崎駿監督の「君たちはどう生きる」が成功したから、二番煎じをやりたがっているのかもしれないが、戦争を肌で感じていた時代とは明らかに今は違う。戦争は国対国なので、国民全員が関わるが、表現の表現は、表現者しか関わらない。企画の段階で、すでに見る者を規定してしまっている。
いいのか。
スマホの使い過ぎで前頭前野の機能が落ちているなどと言われている昨今、手近なテーマでお茶を濁している人たちが数多いように思う。
https://www.youtube.com/watch?v=NNfGoFdEFyk
見るべきは、内面ではなく、人はどうやって動くのかをつぶさに見ていくことではないのか。社会的な動きや感情をどう発露するのか、結局人間や世界が好きでないと、表現活動は苦しいだけのものでしかなくなるのではないか。
「文化教育の負け仕草」に見えてしまう。結局、教育機関が文化教育をやってきたが、視線までは伝わらなかったのか。有名になりたい感情だけを理解していく。そういう作品を否定はしないが、興味はないぜという気がしてならない。
別の視点の作品が世の中には数多くあるし、そちらの方が残っている。