『宿憑きの人』
目の前を霧が覆っている。
スマホの天気予報では晴天とされていたが、存外外れるものだ。
「たまの休みなんだからどこかへ遠出してみれば」
妻にそう言われて、当初の俺は奥多摩へ鮎を釣りに来ていた。
東京とは思えない緑豊かな山麓には、コロナ明けから観光客が押し寄せていた。観光スポットには釣り人が多く、早々に竿を仕舞い、山登りに切り替える。
梅雨も明けて、日向よりも木陰が気持ちいい季節になっていた。
山登りなどいつ以来だろうか。
以前は職場の仲間と来ていたはずだが、皆、徐々に忙しくなってきて、いつの間にかひとりになっていた。コロナ禍になり、自粛生活をしているうちに、外に出ることも少なくなってしまった。
山道の日陰を歩いているとはいえ、じっとりと汗が噴き出し、Tシャツが濡れていく。運動をしていなかったせいもあり、山間部まで来るとすっかりびしょ濡れだ。上に羽織っていたネルシャツまで濡れてきたので、休憩がてら着替えることにした。山道とはいえ、時々、人は通るので半裸にはなれず、とりあえず山道から外れる。
大木の下、人目に付かないところで全身に虫よけスプレーをかけて、着替えて山道に戻ろうとしたら、いつの間にか周囲に霧が立ち込めていた。
そんなに山道から外れていないはずなので、元来た場所へ戻ってみたのだが、山道が見つからない。そのうちに、気温が下がり、どんどん霧は濃くなっていく。
「おーい! 誰かー!」
大声で叫んでみたが、返事はない。
歩き回るのは危険だが、身を寄せる場所もない。とにかく山頂まで行けば、霧も晴れて山道に出るだろう。そう思って森の中を歩いたが、一向に山頂も見えず、体力を奪われていく。
小川の音が聞こえ、それを頼りに進んでいくと、ようやく身を隠せそうな崖の窪みを見つけた。
「こんな低い山で遭難か……」
観光客が多いのだから誰かしらに見つかるだろうと思っていたが甘かった。山を舐めてはいけない。
見上げれば、垂れ下がった苔から雨水が垂れて、水たまりを作り始めている。雨宿りはできても長居はできないだろう。
バックパックの中から、いざという時のためのチョコを取り出して食べた。まさか本当にこんなことが起こるとは。幾度となく予想していたが、実際に起こると本当に周りが見えなくなってしまう。
「落ち着こう」
自分に言い聞かせて、大きく息を吸って吐く。何かを食べて少し安心したのか、ふと目を閉じてしまった。
目を開けると周囲が暗くなっていた。スマホを取り出してみると、時刻は19時を回っていた。電波はもちろん圏外。小雨は止んでいたが、うっすら霧は残っている。
俺は完全に遭難していた。動かず朝まで待てば、霧も晴れるだろう。麓に停めていた駐車場の料金が気がかりだ。
尻が雨水に濡れて冷たい。できれば乾かせるような場所があるといいのだが……。
立ち上がって周囲を見たが、草木が生い茂っている谷の底からでは何も見えない。
ピチャン。
近くの水たまりをなにか獣のようなものが通った。日本にいる肉食の獣は熊ぐらい。さすがにそれほど大きくなかった。狸やハクビシンだろう。もしかしたら、今いる場所は彼らの寝床だったのかもしれない。
徐々に暗闇に目が慣れ、周囲のものも見えるようになってきた。
見上げれば星空も見える。いつの間にか霧が晴れていた。
小川さえ見失わなければどうにかなるか、と草木で覆われた坂を上ってみる。
坂の上には廃屋があった。窓が割れ、室内から蔓が伸びている。入り口の横には、くすんだ看板が立てかけられていて、スマホの明かりを頼りに見てみたが、名前はわからなかった。
周囲には他に建物はない。猟期の休み処かとも思ったが、軒もあるし立派過ぎる。
山小屋を建てるほど高い山でもないので、おそらく山の中にある宿だったのだろう。
開けようと思ったが、鍵がかかっているのか開かない。玄関でもいいので休めるといいのだが……。
止んでいた雨がパラパラと降ってきた。
再び星空が見えなくなっていた。
「仕方ない」
石で引き戸のガラスを割って、鍵を開け中に入る。水カビの臭いと濃い緑の匂いが鼻につく。
スマホの明かりを頼りに室内を見ると、広めの玄関を上がると廊下が伸び、左手に囲炉裏のある部屋。廊下の先にある階段は崩れていて二階へ上がることはできなさそうだ。
階段脇の天井から「風呂↑」と書かれた案内板が吊るされている。
小さな古民家の宿で間違いないようだ。
引退後の隠れ家としてはいいが、さすがにこんな山奥では経営ができなかったのだろう。天井が崩落して瓦礫だらけ。廊下の床が抜けて、草が育っている。
瓦礫の中から木の板を拾い、囲炉裏で火を焚いた。ズボンを脱いで濡れた尻を乾かしていると、鳥肌が立ってくる。さすがに夏を過ぎると、夜は冷えるようだ。それでも風は入ってこないし屋根があるので安心できる。
ピチョン……ピチョン……。
宿の奥の方から、水が落ちる音が聞こえてくる。雨漏りでもしているのだろうと思っていたが、音は風呂の方からだ。もしかしたら温泉でも湧いているのか。
暗がりの中、下半身はパンツ一枚で風呂場へと向かった。
蔓が垂れ下がる脱衣所を抜けると、暖かい湿った空気が充満している。元栓は閉まっているものの、湯気が排水溝から立ち上っていた。
「温泉も汲み上げていたのか」
源泉かけ流しなら、温泉が出てくるのかもしれない。
元栓をクイッと開けてみると、トボドボとお湯が出てきた。どうせ遭難した夜は長い。窪みで寝たのもあり、今夜は眠れそうにないので、湯船を洗い、足だけでも温めることにした。
一旦、元栓を閉じて、どこかにモップでもないかと探したら、脱衣所のロッカーに亀の子たわしが残っていた。
たわしひとつで湯船を洗うのは時間がかかりそうだが、今の俺は都会の喧騒からも離れ、遭難中だ。腹も減って何かしていないとストレスも溜まる。
俺はゆっくり時間をかけて、湯船と洗い場をたわしでごしごしとこすり、できるだけコケや水カビなど、汚れを洗い落としていった。黒かったケロヨンの桶もしっかり黄色にもどした。
再び元栓を開けて、湯船に湯を溜める。
溜めている間についにスマホの充電が切れ、風呂場が真っ暗になった。仕方がないだろう。
「足湯だけ出来ればいいや」
チャポン。
温泉の熱が汗で冷えた身体を足元からじんわりと温めていく。
落ち着いて、よく考えれば俺のやっていることは犯罪だ。廃屋とは言え器物損壊罪に家宅侵入罪。遭難したと事情を話せば、情状酌量の余地はあるだろうか。持ち主には素直に謝ろう。修繕費なら少しは弁償できるか。
そう思って暗闇の中で笑っていたら、洗い場になにかの気配がした。
ひた、ひた、ひた。
獣のような息遣いとともに、裸足でこちらに向かってくる音。一瞬、熊かと思い身構えたが、それほど大きく重量があるような足音ではない。目の見えない老人が紛れ込んできたのか、幽霊か。とにかく、そのなにかがジャブンっと湯船に入った。
「おおぇえい~……あぁ~……」
なにかの声が漏れ出た。俺も疲れていて風呂に入れば同じような声を出す。
緊張感が途端に和らぐ。たとえ幽霊だとしても、それほど悪いことをしてはいないはずだ。こちらを襲ってくることはないだろう。
足湯をしている俺の横で、そのなにかはじっくりと温まってから、再びひたひたと足音を立てて出ていった。ちらりと後姿を見たが、頭に角が生えているわけではなく、顔全面が毛に覆われているように見えた。
俺も湯船から上がり、風呂場から出る。
火の焚かれた囲炉裏では串に刺さった鮎が焼かれていた。
俺への風呂の代金だろうか。
バックパックから手拭いを取り出して足を拭い、スマホを充電し、乾いたズボンを穿いた。風呂掃除をしたのもあって、腹は減っている。
ありがたく俺は鮎の串焼きに口を付けた。
「美味い」
大きめの鮎には内臓が少し残っており苦みもあったが、自分の舌には合った。
体が温まり、腹も満たされた。
外は静まりかえり、割れた窓から月明かりが差し込んでいる。
座りながら少しだけ眠った。
目が覚めたのは、日が高くなってからだ。
窓やガラスの引き戸から燦燦と太陽光が差し込んでいる。
俺はバックパックを背負い、靴を履いて表に出た。
草木が生い茂る坂を抜け、小川で水をペットボトルに入れる。
小川を下っていけば、鮎を狙う釣り人に会えるだろう。
俺は道なき道を進み、小川を下り、大きな川へと出た。
さらに川をくだっていくと、ようやくアスファルトの道路が出てきた。ガードレールがあり、自動車が何台も通り、街並みも見えてきた。
もし妻が警察に捜索願を出していたら、いろんな人に迷惑をかけていただろう。
ただ、車を停めた駐車場がわからない。街並みも見たことがない。
ひとまず、町を行く壮年の女性に道を尋ねてみた。
「道に迷ってしまって、ここはどこですかね?」
「んあ? イブスキよ。どっかあきたとな?」
そう言って女性は遠くの看板を指さした。
看板には「フラワーパークかごしま」「指宿温泉郷」と書かれている。充電が済んだスマホの電源を入れて、地図アプリで位置を確認すると、俺は鹿児島にいた。
しかも遭難した日から2日も過ぎている。廃屋に泊ったのは一泊のはずだが、どうなっているんだ。
ひとまず近くの温泉施設で、警察を呼んでもらい、事情を説明した。
「奥多摩からだと海を渡らないと九州まで来れないと思うんですけど……。いや、そういうことじゃないか。もし、捜索願が出されていたら、見つかったと報告してください」
妻に連絡を取ると、呆れていた。
「どこにいるの?」
「指宿って知ってるか?」
妻は捜索願を出していて、車も家に戻っていたが、まさか夫が鹿児島の指宿にいるとは思わず、奥多摩周辺を探していたとのこと。当たり前だ。
飛行機で羽田空港に向かい、妻が運転する車で家に帰った。
「随分、遠くまで気晴らしに行ったのね」
「ああ、どうやって行ったのか覚えてないんだ。奥多摩で遭難してさ、次の日には指宿だ。2日も経っているのに。まるで神隠しにでもあったみたいだ」
「変な女に捕まったんじゃないの?」
「それだったらもっといい格好してるよ」
「それもそうね」
「なんか精神的にまいってるのかもしれない。仕事先にも謝らないとな」
「そうよ。皆、心配してくれてるわ」
仕事先には、すぐに連絡をして事情を説明し謝った。
「心療内科を予約する。海を渡ってるのに記憶もないなんて、よほど疲労が溜まってるんだ」
「仕事、辞める? 辞めてもいいんだからね。私が働いてもいいんだし」
工務店の仕事だが、確かに監督を任されることも多くなった。それで、無意識のうちにストレスが溜まっていたのだろうか。コロナ禍の時は、それほど心労がなかったが、突然、動き出して身体が戸惑っているのかもしれない。
「うん、少し件数を減らしてもらうよ。給料も減ると思うけど……」
「わかった」
家に帰り、妻の作ってくれた生姜焼き定食を食べて、ようやく落ち着いた。
心療内科に行き、話を聞いてもらって、薬を貰った。睡眠薬が要らないくらいには眠れている。
翌日から仕事に復帰。工務店に努め出してから7年になる。同僚は皆、いい人たちなので責任のある仕事は受けず、量も減らしてもらった。
「大丈夫か?」
社長が昼休みに聞いてきた。
「今のところ大丈夫です。でも、1日記憶がないって怖いですよね。あ、一応、警察で薬物検査もしましたから、大丈夫ですよ」
「あ、おう。さすがにそんなことする奴だとは思ってないけどな。無理だけするなよ」
「はい」
年の近い社長は、働き盛りの俺が突然行方不明になって驚いた様子だった。
「ほら、甘いものでも食べてさ。忘れな。ちょっと仕事入れすぎて疲れてるのよ」
同僚の事務員のお姉さま方も心配してくれた。
「そうだといいんですけどね」
ほどなく、俺は通常の仕事に復帰していくことになる。
ただ、時々、あの日一緒に風呂に入ったなにかの正体は気になった。ネットで奥多摩周辺の古民家宿を探してみたが確認できなかった。
ちょっとだけ俺のことがネット上で話題になって「会社員が神隠し」などと騒がれたようだ。
翌年の春。会社の同僚たちと山へ登ることになった。
心療内科から貰う薬の量も減り、医者から「友人と少し外に出てみては」と言われていたので、社長から「日光にある戦場ヶ原に行ってみないか」と誘われたときはありがたかった。
事務員の女性やその彼氏など、総勢5名で行くため、安心だ。山ではなく高原なので見通しもよく、たとえどんなに濃い霧が出ていてもハイキングコースさえ離れなければ遭難することはない。
当日は会社がある駅に集まり、大きめのレンタカーを借りて5人でまとまって日光へ向かう。
「大人の遠足だ」
社長はこの日のために山登りの準備をしていたらしい。服装もハイキングだというのに本格的だ。
決算も終わり仕事も落ち着いてきた。業績は世界経済の煽りをもろに受けたが、悪くはないというところ。社長は運転をしながら、一時は潰れそうだったと思い返していた。
「なんか食べる?」
事務の子が、持ってきた大量のお菓子を見せてきた。
「ハイキングでも遭難したら海まで下りて行かないといけないでしょ」
非常食として持ってきたらしい。それにしても何日遭難するつもりだろう。
「遭難したときは海に行くより、山に登った方がいいよ。坂を下りていってもどこに行くかわからないけど、山の頂上にはだいたい山道があるから」
「確かに。遭難者は詳しいのね」
「伊達で遭難したわけじゃないさ」
この頃には話のネタにもできていた。
「お菓子は交換しよう。俺も少し持ってきたから」
「お菓子の交換会なんて、子供のころ以来だわ」
俺が持っているお菓子は少ないが、ソフトキャンディとチョコは用意している。
「じゃ、私これにしよう」
事務の子はブルガリアの山が印刷されたヨーグルトキャンディを選んでいた。
「俺はシュワシュワする飴を貰おう」
口に入れると飴が溶けラムネ成分が溶けだすお菓子のようだ。
サービスエリアで蕎麦を食べ、うねる山道を通り中禅寺湖に着いたのが10時頃だった。男体山と中禅寺湖の先、赤沼茶屋にレンタカーは停めた。
男体山と赤城山の神々が争い、湖だったところが湿原化したと言われる戦場ヶ原だが、のんびり小鳥が鳴いている。
少し前に木道が補修されて歩きやすくなっていた。湿原を守るために通された木製の道だが、ハイキングには適している。
森を抜ければ、戦場ヶ原の展望台。枯れた草が金色に輝き、遠く男体山まで広がっているように見えた。
展望台で休憩していると、冷たい風が吹いてきた。雨が降るかもしれず、同じようにハイキングに来ていた人たちも写真を撮ってとっとと先を歩いていった。
休憩を済ませ、再び歩き始めた。
展望台を抜ける頃には、ウィンドブレーカーがなかったらちょっと耐えられないくらい冷たい風が吹いていたが、森に入った途端に風が止み、徐々に霧が出てきた。
暖かい空気に冷たい風が入り込んだのだろう。
「いやぁ、これは遠くまで見えないぞ」
先頭を歩く社長が心配そうに言った。
「木道さえ外れなければ大丈夫です」
ハイキングは2時間ほどなので遭難する方が難しいのだが、俺はそんな道で遭難したことがあるのでそこまで言えない。
「あれ、帽子を置いてきたの?」
事務員の子に言われて、自分が展望台で帽子を置いてきたことに気がついた。
「先に行ってて、ちょっと取ってくるから」
「一人で行くのは……」
「見えてる距離だよ。さすがに大丈夫さ」
笑顔でそう答えたのが運の尽きだった。
帽子を取りに行き戻っている最中、突風が吹いた。
霧は一層濃くなり3メートル先も見えなくなった。
「おーい!」
同僚たちに声をかけてみたが、返事はない。スマホはいつの間にか圏外になっている。
それでも、木道さえ外れなければ出口までは辿り着く。
一歩一歩確かめながら、整備されたばかりの木道を歩いていると、木が腐って木道が消えてしまった。
少しだけ霧が晴れた先には、ただの山道が続いているだけ。
急激に気温も下がってきた。
「もしかして、また、か……」
木道を出てはいけない気がして、その場でじっと待つことにした。
道さえ見失わなければ、どこに神隠しにあっても、遭難者として助けは来るはずだ。
それが一度遭難した者として、最大限迷惑をかけない行為のはずだった。
タッタッタッタ……。
子どもの足音が近づいてきた。思わず、座っていた木の板から尻を浮かせて、立ち上がって霧の向こうに目を凝らす。どうせなにか妖怪か化け物でも出るのだろうと思っていたら、外人の子どもが軽装でやってきた。年のころは10歳ほどだろうか。
「どこから来たんだい?」
そう優しく聞いても、何語かわからない言葉でとにかく大変なことになったことを訴えかけてきた。英語でもなければフランス語でもなさそうだ。ただ、ヨーロッパの言葉であることはなんとなくわかる。
少女の目は青く、髪は栗色で、アングロサクソン系の顔をしていた。腕には鳥肌がずっと立っていた。アウターをなにも着ていない。
すぐに自分のウィンドブレイカーを着せて、身体をこすって温めた。ポケットに入っていたソフトキャンディを食べさせると、ようやく少し落ち着いていた。
陽の光は射さずに、どんどん気温は下がっていくばかり。自分一人なら耐えられていたかもしれないが、ガタガタと震える少女と一緒だと、避難する場所を探さないわけにはいかなかった。
身体が冷えて動けない少女を背負い、ひたすら山道を下る。ここがどこなのか考えることはやめた。少女の生存を最優先させる。
山道を急いでくだっていると、霧は再び徐々に深くなっていく。
ずるりと滑って転びそうになりながらも、背中の少女にだけは地面に付けないように肩と額で受け身をとる。おそらく擦り傷程度は。骨が折れたわけではない。
「ごめん」
言葉がわからないのに、謝ってしまう。
振り返ると、少女が前方に何かを見つけ、目を見開いていた。
俺は前方に目を凝らす。
「え?」
霧の向こうに黒い建物が見えた。
「どうしてここにあるんだよ……」
例の神隠しにあった宿だった。
背中では、歯を鳴らす子どもがいる。選択の余地はない。
引き戸を開けて、中を確認せずにそのまま風呂場へと向かう。ランプの明りの下、湯はしっかり沸いている。
服も脱がずに俺は湯船に飛び込んだ。服は後で洗って干せばいい。
今はとにかく少女の身体を温める。
ガラリ……。
入口の引き戸が開かれた音が鳴った。
ひたひたひた……。
迫りくる化け物の足音に心臓が縮み上がるが、子どもを隠すためなら自分が食われてもいいと思えば肝も据わる。
風呂場に来たのは、袋を担いだ人型の化け物だった。
「トルバ……」
ちゃぽん。
少女が何か喋ったが、化け物が袋を担いだまま湯船に入ってきてしまい、何も発せなくなった。
化け物は、腹の底から響くようなうめき声をあげて、ゆっくりと湯に沈んだ。泥が同心円状に広がり、一気に風呂場には卵が腐ったような臭いが広がる。
少女と自分は鼻をつまんで、身動きもできずに必死に耐えた。
ブハッ!
白い顔の化け物が風呂場から出ていったときには、身体の震えは止まっていた。
ガラリ……。
化け物が外に出た音を聞いて、気が抜けてしまう。
「あ~、くさいな……ふっ」
自分が笑うと、少女も笑っていた。大丈夫そうだ。
一度湯船から湯を抜いて、掃除をしてしまう。掃除道具は前と同じ場所。脱衣所のロッカーに入っていた。バケツにお湯を入れて、一気に泥を洗い流し、たわしとモップで残った汚れを落としていく。
作業がある分、余計なことを考えないで済む。
その間に、少女には囲炉裏で濡れた服を乾かしてもらった。服を絞って、早く乾かすため囲炉裏の上の火だなにかけていた。煙の臭いは付くだろうが仕方ない。
「あっ……」
少女が、長く繋がったソーセージを抱えて風呂場に来た。
「食べ物を見つけたのか?」
言葉がわからないが、玄関先に置いてあったと少女が説明してくれた。化け物が代金として置いていったのかもしれない。
囲炉裏で二人並んで、ソーセージに棒を刺して焼いていると、腹が空っぽだったことに気がついた。匂いだけで、涎が止めどなく溢れてくる。
焼けたソーセージを一本少女に渡したら、我慢しきれなくなって熱く焼けているソーセージにかぶりついた。
プツっと歯で皮を破くと肉汁が口に溢れでた。肉のうまみが詰まっていて、強いハーブの香りが鼻から抜けていく。口の中を火傷したが、人生で一番おいしいソーセージだった。
落ち着いたら、きれいになった風呂に入り、もう一度身体をしっかり温めた。
服が乾くまで囲炉裏の横で仮眠。寝ぼけていたら、上がり框にどんぐりのような実がひとつ落ちてきた。
天井を見上げても穴は空いていない。
コツン。
再び、板にどんぐりが置かれた。土間には民族衣装を着た手のひらサイズの小人が続々と風呂へと向かっていく。
やはりここは人ならぬ者たちの風呂宿だったのか。
少女は小人たちを見て、膝を抱えてしまった。わけのわからぬものは大人でも怖い。
風呂から上がった小人たちを見送り、しばらくして玄関先に日の光が差し込んでいた。
「霧が晴れたな」
服もすっかり乾いている。
まだ少し濡れている靴を履いて、少女と一緒に山道を下りた。白い花が咲き乱れ、ハイキングにはちょうどいい山道だった。見渡せば戦場ヶ原とは思えぬ山脈が広がっている。
うすうす気づいてはいたが、自分はまた神隠しにあったのだと受け入れた。どうやら自分は完全におかしくなったようだ。
ただ春風が気持ちよかったからか、まるで嫌な気分ではない。少女を家まで送り届けられればそれでいいとさえ思った。
山を下り続けていると石造りの古い家々が見えてきた。やはりヨーロッパのようだが、どこかはわからない。
犬を連れた老人がこちらを見つけて、手を振ってきた。蛍光色のベストを付けているので、もしかしたら少女を捜索するために山狩りをしていたのかもしれない。
老人はトランシーバーで少女を発見したことを報告しているようだった。メーカーのロゴが入ったトランシーバーがあるのだから、異界ではないだろう。
少女は老人に事情を説明してくれたが、自分はどう見ても軽装で異国の男なのであやしい。
とりあえず山道を下りていくと、少女と同じ顔の女性と似ている男性が駆け寄ってきた。どう見ても親子だろう。
両親は少女を抱きしめて、再会を喜んでいた。
これで自分の役目は終わったが、ここからが大変だった。
警官に囲まれて、訛りの強い英語では会話にならず、少女を誘拐したのではないかという疑い間でかけられたが、少女が事情を警官たちに話してくれたようですぐに解放された。
結局調書に「JAPAN」と書いてようやく日本人であることが伝わったようで、大使館に連絡がいった。
「ここはどこなんですか?」
「ブルガリアです」
大使館の人と話して、ようやく自分がブルガリアにいること、戦場ヶ原にハイキングに行ってから5日も経っていることがわかった。
もちろんパスポートなんて持っていないので不法入国だ。強制送還で日本に帰ることになった。
飛行機に乗る頃にはネットで騒がれ、奇跡の男が少女を救ったとブルガリアの山村では話題になり、日本では『お騒がせ神隠し男』として広まっているらしい。
スマホの電池はそこで切れた。
空港に迎えに来た妻の顔を見て、ようやく生きた心地がした。
警察の事情聴取には「心神喪失状態」だったとして処理されたあと、自分は会社を辞めた。
社長は引き止めてくれたが、休日に皆で言ったハイキングで突然、消えていなくなる社員はさすがに迷惑過ぎるだろう。
「どうやら完全に頭がおかしくなった」
笑顔で妻にそう告げると笑っていた。
「怒る気が失せたわ。別れるつもりはないからね」
用意していた離婚届はノールックでそのままゴミ箱に捨てられた。
「何もできないぞ」
「うん」
「急にふらっと消えるかもしれない」
「どこかに消えるなら、帰ってくる場所くらいは必要でしょ」
妻に正面から向き合われると、何も隠し通せる気がしない。
自分が隠していたはずの強がりも溶かされていくようだった。
おかしくなった原因があるはずで、向き合っていなかった現実もあるはずだ。
「何か忘れてるんだろうな」
「思い出すのは、ゆっくりでいいのよ。貯金はある!」
妻は頼もしかった。
しばらくぼーっとした日々が続くと思っていたが、ブルガリアから帰ってきて3日目、久しぶりにスマホを見るとメールが届いていた。
仕事以外ではほとんどメールなどしない。それまでも同僚や友人とはSNSで済ませていたし、妻には「変なことが書かれているから見なくていい」と言われていて以降、触れもしなかった。
メールを開いて見ると、学生時代に民宿で泊まったことのある宿主の息子さんからだった。金のない学生には都合のいい民宿で、遠出の山登りの際によく利用させてもらっていた。務めるようになっていかなくなってしまったが、妻と出会った思い出の場所でもある。
民宿が閉業して長く経つが、宿主が亡くなられたそうで写真の裏に書かれたメールアドレスを頼りに連絡してきてくれた。
夏には取り壊すというその民宿を見て、はっとした。
神隠しで訪れた宿そのものだった。
「どうして忘れてたんだ……」
学生時代の思い出と神隠しにあった時の記憶が写真のように次々と頭に浮かんだ。
データ入力のパートから帰ってきた妻にすぐ伝えて、宿主の息子さんにメールを返した。
『お悔やみ申し上げます。もし買い手がおらず、取り壊すなら、買い取らせていただけませんか』
退職金はあったし、改装工事は自分でもできる。電気の配線も資格は持っている。
妻も初めは戸惑っていたが、ネット環境さえあれば仕事はできると最終的には承諾してくれた。
翌日、宿主の息子さんからメールが返ってきて、翌週には内見させてくれることになった。
都心から離れた山奥で、周辺は高齢化のため耕作放棄地の畑が多い中、その宿はぽつんと佇んでいた。
ところどころ壁がかびていたし、畳はボロボロだったが、囲炉裏はしっかりしていたし、奥の風呂場には今でも栓を外せば温泉が流れてくるという。
アンテナは少ないが、ネットも使える場所ではあった。
「本当にいいのかい?」
宿主の息子さんから再三忠告されたが、この宿に呼ばれて、二度も神隠しにあった。自分からすればようやく現実で見つけた宿だった。取り壊されると、向き合えなくなってしまう。
春の終わり、梅雨が始まる前に引っ越した。
畳を張り替え、土壁を補修して住める環境だけ確保。二人暮らしだったので、荷物は少ない。
家を修繕しながら、住み始めた。
買い出しに出かけるときは少し車を走らせないといけないし、ガソリン代もかかるので1週間分は買い込む。田舎町はゴミを出すだけでもめると聞いていたので周囲も必要だ。
妻には不便な生活を強いて申し訳なかったが、「落ち着くからいいんじゃない」と言っていた。
風呂場のロッカーには古いたわしとモップだけ。新しいものに取り換え、隙間風が吹いてくる窓のサッシを修理。タイルはきれいに掃除すれば、まだまだ使えた。
霧深い日には、妖怪や化け物が来るのではないかと思って、玄関だけは掃除しているが今のところまだ来ない。
家具も揃って、家に風が吹いてくるような隙間がなくなった頃、買い出しに出かけた妻が黒い小さなリュックを渡してきた。
「トランクのシートの裏に突っ込んであったけど」
「あっ……」
中には、ベビー服にタオル、ノートが入っていた。
ノートにはこれから生まれてくる子供の名前の案が書かれていて、必要なものをリストアップされていた。ベビー服はブルガリアの民族衣装のような刺繍が縫われていて、タオルは誰かから貰った鹿児島土産だった。
妻は昨年の秋、妊娠中毒症で子供をおろしていた。
自分は妻の妊娠を聞いてバカみたいに浮かれて、生まれてくる赤ん坊を受け入れる用意をしていたことをようやく思い出した。
病院から帰ってきて夜中、泣いていた妻を見て、抱きしめることしかできなかった。
妻をカウンセリングに行かせて、水子の神社にもお参りして、人生をかけて背負っていくものだと心では思っていたのに、自分は感情を表に出すことはなかった。
リュックを開けて、止まっていた時が流れ始める。今になって止めどなく涙があふれ出た。
妻は泣いている自分を見て、そっと抱きしめながら戸惑っていたようだ。自分でも、急に眼を開けながら泣く夫なんか嫌だと思う。
後に調べてわかったが、世界には親が子どもを脅すときに使う妖怪が数多い。子取婆、雨女、ブギーマン。鹿児島にはヨッカブイという妖怪がいるし、ブルガリアにはトルバランという怪物がいる。
写真を見たら、神隠しの時に見た化け物にそっくりだった。
霧深い日の夜には、囲炉裏で火を熾して彼らを待つことにしている。もしかしたら生まれてこなかった子を連れてくるかもしれない。
コツン。
上がり框に入浴料のどんぐりが転がった。
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