伝説の名医 華佗
中国の後漢末期に華佗(かだ)という名医がいたとされています。本草学、今で言う薬学に造詣が深く、健康法やさまざまな治療を行っていたとのことで神医と呼ばれていたそうです。
私は毎年お正月にはお屠蘇を少しいただきますが、そのお屠蘇も最初に作り出したのは華佗だと言われています。このお屠蘇も生薬を何種類か含んだ立派な漢方薬です。
次第に華佗の名声が響き渡るにつれて三国志でも有名な当時の曹操の耳にも入り、一時期召し抱えられていたようです。しかしその待遇に不満を持ったため故郷に戻って、曹操の再三の求めを聞かずに二度と召し抱えられようとしなかったために処刑されたと言われています。
曹操は頭痛持ちで、その症状を華佗がずいぶん軽くしてあげたと言われています。頭痛の原因ははっきり分かりませんが今で言う偏頭痛や筋緊張性頭痛だったのかもしれません。脳腫瘍だったと言う説もあるようですが明らかな神経症状などを記載した記録は残っていませんから脳腫瘍説はちょっと難しいかもしれませんね。
頭痛を軽くしてくれた華佗を獄死させてしまったことを、後々曹操は後悔したと言われています。
華佗の行ったとされることで私が最も興味があるのは、全身麻酔による手術をしたと言う点です。どのような薬草を混ぜて作り出したのか分かりませんが、麻沸散と言う麻酔薬を作り出しています。さらに麻沸散で麻酔をかけた人に外科手術を行ったとされているわけです。人の体を傷つけて治療を行うという発想がその当時あったことにも驚きですが、文字として残っている記録で全身麻酔下の手術なんていうのは日本て言う江戸時代の末期になりますから驚くべきことです。
日本の名医の一人として挙げられる人に華岡青洲がいます。長崎で蘭学を学び、京都で日本の医学、今で言う漢方を学び、故郷に戻ってその両者を利用して様々な治療を行っています。蘭学と漢方を併用して医療を行っていたわけですから蘭漢折衷、今でいう和洋折衷と言う事ですね。彼は深く医学を学んでいるうちに、遠い昔、薬草を用いた全身麻酔法が華佗によって開発されていたと言う事を知ったようです。蘭学を学んで、自分のところにやってくる乳がんの患者さんに対して治療を行なっていたようですが、切除するには激烈な痛みを伴います。そこでなんとか華佗が作ったとされる麻酔薬を自分で作り出そうと、実験を繰り返したようです。「華岡青洲の妻」という小説が史実がどうかは別にして、実際に全身麻酔を導入し、乳がんの切除術を成功させたわけです。アメリカで全身麻酔の公開実験が成功した1846年の42年前に、実はすでに日本において全身麻酔は導入されていたわけですね。
ちなみに華岡青洲の開発した全身麻酔薬の中には、朝鮮朝顔が使われていたとされており、日本麻酔科学会のシンボルマークにはその朝鮮朝顔が使われています。
こうやって見てみると、西洋医学と漢方の優劣を競うなんて意味がないと思いませんか。それぞれの得意なところをうまく融合させ、華岡青洲のように和洋折衷と行きたいものだと、外科医として生きてきた私は思っております。
長い歴史の中で積み上げられてきた漢方という医療、心身の見方を受け継ぎ、発展させていきたいものですね。