見出し画像

牛から遠かったチーズケーキ、絶滅ウェイター

人間の記憶がいかにずさんか、発言がいかに正確性に欠くか、自らの思い違いで気づきました。

チーズケーキはお好きですか?

私は甘いものが得意ではないので積極的にはスイーツは食べないのですが、チーズケーキだけは出先で見つけると注文してしまいます。

私が住んでいる島で、個人的に一番おいしいと思っているチーズケーキがあります。

そのチーズケーキがおいしい秘密はいろいろあるのだと思うのですが、一つはチーズの新鮮さです。材料はシェフの親族から直接仕入れているのだと教えてもらいました。

以前、それを聞いた私は、「どうりで、牛の存在を近くに感じたわけだ。このチーズケーキは物理的な距離として牛から近い」と書きました。

ところが、恥ずかしいことに、それは、牛ではなかったことがわかりました。

私は、「チーズケーキを口に入れるとまぶたの裏で牛が微笑んでくれる」と抜かしながら(ほんと、どの口が言った)、実際には、牛ではなく、山羊(ヤギ)のチーズだったのです。

私が勝手に脳内のスクリーンに映し出していた干草をムシャムシャ食べる牛たちはイリュージョンで、その脳内スクリーンをムシャムシャとかじってヤギが現れました。

例えとして正しいかわからないけど、デイケアセンターにいる祖母を迎えに行って、家に着いて車から下ろして車椅子でベッドまで連れて行ったら、全く知らないおばあちゃんだった、みたいな驚きです。

いい加減なものです。私の味覚も嗅覚も。

しかも、ヤギであることは、シークレットでもなんでもなく、至極オープンにケーキの前に「ヤギのチーズケーキ」と書いてありました。ただ私がよく見てなかったのです。

節穴にもほどがありますし、鼻も口もあてにならないとは、一体なんの感覚なら私はまともに機能しているのでしょうか。

ところで、その島一番のチーズケーキを出す店について、パーフェクトと言うには少し引っかかりがあると前に書きました。

それは、我々の忍耐力を試すコーヒー提供スピード、ウェイターのムーン氏(仮名)のサービスでした。

とても熱心に機敏に動くシェフとは対照的に、静かに無表情に働くムーン氏。

「丁寧な暮らし」を実行しているのか、時間を贅沢に使い、ゆっくり、きめ細かく完璧な泡が乗ったコーヒーを作るムーン氏。

この店のレビューを読むと、

「信じられないほど美味しかったです。」
「最高級の原材料を使用!」
「とても清潔でプロフェッショナルです。」
「すべてがとても自然な風味で素晴らしかったです。」

と5つ星と賛辞が溢れています。一方で、わずかにある低い評価には、

「ウェイターがスローモーションでコーヒーを2杯入れるのに永遠に時間がかからなかったら、食べ物はとてもおいしい」
「サービスの待ち時間は常に非常に遅いです。痛いほど遅い。」

と、書かれています。

正直私たちも最初の2回くらいは、たかがコーヒーになぜこんなに時間がかかるのだろう?と不思議に思いました。キリンだったらかなり高いところの葉っぱが食べられるくらい待っていました。

私の相方ブッダは「もっと仕事が早いウェイター雇えばいいのに」と言いつつ、「きっと、海で溺れかけていたシェフを彼(ムーン氏)が救って、命の恩人だから、彼がスローでも、シェフは雇い続けるんじゃないかな」と勝手な話をして笑っていました。

だけど、そのうちに、私たちは熱血なシェフよりも、この遅いウェイターに愛着が湧いていました。

決して焦らない、謝らない、笑顔も見せない、でもとってもクリーミーなおいしいラテマキアートを作ってくれるムーン氏。

ぜんぜん愛想はないけど、何か貴重な野生動物のような、絶滅しないでほしいと願う気持ちが、私たちには芽生えていました。

1つ星のクチコミに「ウェイターがスローモーション」と書かれているのを読んだ時にも、私たちは大笑いをして、さすがムーン氏だね、と愛くるしくさえ思っていました。

ところがある日、いつものようにチーズケーキとコーヒーをいただこうとカフェの扉を開けると、ムーン氏ではない男性がエプロンをかけてカウンターにいました。

私たちは言葉を失いながらも、絞り出した声でチーズケーキとコーヒーを注文。

「もしかして、スローモーションのレビューでクビになったのかな?もう、シェフは溺れてた時に助けてもらった借りを返して、我慢の限界が来たのかな?」とブッダ。

「いや、きっとホリデーだよ。短期的な休暇中だけのかわりの人だよ」と現実を受け入れられない私。

しかしその後、何度通っても、もうムーン氏の姿を見ることはありませんでした。

ブッダは「ムーンが入れてくれたコーヒーの方がおいしかった・・・」と、失われたクリーミーな泡に思いを馳せています。

スローに働くムーン氏を愛くるしく思う気持ちは、最初からは芽生えていたわけではありませんでした。

「もっと仕事が早いウエイター雇えばいいのに」と言っていた私たちでしたが、何度も通う間に、愛想もサービス精神もないけど、なぜかはわからないけどとてもおいしいコーヒーを出してくれる彼をすっかりエンターテイメントとして受け入れていました。

それはもちろんシェフが作るヤギのチーズケーキが、コーヒーの提供スピードを超えておいしかったことが基礎としてありますが。

それ以上に、私たちは、ムーン氏についてああだこうだと話すことが、楽しみとなっていたのです。

もう見られないと思うと、切ないものです。最終回が来てしまったお気に入りのテレビドラマのような。毎週楽しみにしていた気持ちは行き場をなくします。

ムーン氏がいなくなった以上に残念なことは、新たなウェイターも決してスピードが速くないことです。とはいえ早々にジャッジせず、もう少し彼にもチャンスをあげないといけないのかもしれません。

シェフにはムーン氏の行方については尋ねていません。ですが、ここは小さな島。

私は道を歩いているときに、自転車に乗ったムーン氏が颯爽と駆け抜けていく姿を見ました。すぐに私はブッダに「ムーン見たよ、元気そうだったよ」と伝えました。彼の新たなキャリアに幸運を祈るばかりです。

いいなと思ったら応援しよう!