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「星を掬う」から見る家族のこと

町田そのこ「星を掬う」を再読した。
主人公の千鶴が、ラジオ番組に自分の過去の思い出を売ったことをきっかけに、昔自分を捨てた母親と20年ぶりに再会して、これまでの経緯や母親の秘密について知る物語である。

30年間自分が生きてきて知りたいと思っていたこと、そして誰かに知って欲しいと願っていた言語化できない感情のすべてが、町田さんの手によって1冊の物語になっていた。
主人公の千鶴とその周囲の人々に、読み手の私は確かに救われたのだ。

家族、一般的にどういう意味かと辞書で調べてみるとこう載っている。

夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。

辞書の通りに捉えると、縁故関係、もとい血の繋がりに大きく左右されるらしい。

「お母さん」「ママ」「お母ちゃん」「オカン」
どうしても私は母親の呼称を、文章にそして口にすることに躊躇いがあってソワソワと落ち着かない心地になる。

「お母さん」
このひとつの単語から、人は何を連想するだろうか。

玉子焼き、お料理、良い匂い、しゃぼん、エプロン

有名な童謡でもキッチンに立って料理をしたり、洗濯をしている良い匂いという柔らかい言葉が連なる。
けれど、私がお母さんという言葉を訊いて一番に連想するのは「可哀想」という言葉なのである。

自分の話を持ち出すが、私は高校生に上がるまでは母親と喧嘩をしたことがあまりなかった。
物心ついたときから、母はよく自分の家族(祖母、兄姉たち)についての愚痴や虐げられた内容を私に漏らしていたので、幼い私の中で「お母さんは可哀想だから、口答えをしてはいけない」それが根っこに染みついて、批判することは苦しめることだと思い、何も言えなかったのである。
しかし、母親と離れて暮らすようになってからは、色々な人の力も借りて物事を切り離して考えた方が息がしやすいと気付けたので、可哀想な出来事は母親が抱えるものであり、娘の私には関係がないときっぱりと線引きすることができた。
そこから自分にとって心地よい距離感を掴めるようになったのだと思う。

離れて暮らすのがちょうどよいと思っていたけれど、色々不幸が重なって去年の秋から私が住むアパートで母親を引き取ることになった。
体調が悪いこともあり最初は大人しくしていた母親だが、元気を取り戻していくにつれて徐々にすれ違う火種が生まれるようになる。

例えば、うちの母親は基本的に私のすることに対して褒めるということがない。
もちろん30歳を過ぎた今、親になんとかして褒められたいと思うことは少なくなったが、それでも自分がやっている趣味を否定されたり、努力した過程を無視して無神経なことを言われると悲しい気持ちになる。
母親に無神経なことを言われるたびに、黙って「そうね」と訊いていたが、あるとき俯いた私の顔を見た母が「その目を見るのがつらい」と泣きだした。

誰に似たのかうちの母親は、すぐに泣く。
アスファルトで転んだ幼稚園児ですらもっと強いのではないかと思うくらいに、しくしくと泣くのである。
なんで泣いているのかと訊くと、
「お母さんは一度も褒められずに育ってきたから、どうやって人を褒めたら良いか分からん。だから、アンタに対しても褒めて育てることができへんかったし、今でも傷つけてるんやと思う。そうやってアンタの傷付いた目を見るたびに親として情けないし、悲しくなる」

驚くことに、娘を褒めないことに自覚があったらしい。
私が傷付いたと目で訴えたことで、お母さんを傷付けた。
今まで傷付いた側だけが心に傷を負っているのだと思っていたが、傷付けた側もまた自分ではどうしようもない傷を負っているのだとその時の母を見て初めて理解した。

きっと、知らないうちに期待していたのだろう。
理解されたいという気持ちが、褒めて欲しいという欲望に変化して無意識に母親に「褒められたい」と一人よがりな感情を押し付けていたのかもしれない。
でも、それをできない人に(分からない人に)褒めて欲しいと気持ちをぶつけてもそこから生まれるものは何もない。
褒めてはくれないけれど、母親はとても寛容でユニークなのだ。
仕事で疲れて帰ってきたときに上司の愚痴を言うと「お母さんが明日、大学に行ってそのオッサンいてこましたろうか」と真顔で言う。
問題の解決にはならないけれど、疲れたときや仕事で凹んだときにこういうやりとりができるのは、精神衛生上、気楽でいい。
明日も頑張ろうと不思議な力が湧いてくるのである。

きっと、自分と母は世間一般から見ると不健全な母娘の形なんだろうなとたまに思うことがある。
そして私自身、自分の人生は自分のものであり、捨てたくないという気持ちが強いので、どこかでネジが一本でも緩んだら簡単に母親を見放して自分一人で知らない場所へ行ってしまうんじゃないかという気もしている。

歩幅が合わず、片手を繋いで共に歩けるような関係ではないけれど、ただ同じ空間に居合わせて、相手の幸せを無条件に祈れるだけで、娘という役割は果たせているのかもしれない。
それを家族と呼んでいいのなら、いまの私はとても幸せなのである。

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