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らしさの話

らしさの話
新人らしくとか、〇〇(肩書きとか職業とか)らしくってのは違うくて、私が大事だと思うのは「自分らしく」
その上で、置かれたポジションに馴染める人がそこで活躍する。馴染めるか馴染めないか、それは多少努力もあるだろうけど、自分で気づけるかどうかってのが結構大事なんじゃないかな。

 例えばプロ野球、すごい記録を持っている外国人選手でも、日本で必ずしも大活躍をするとは限らないよね。それって日本の野球に馴染むか馴染まないかということも関係あるんじゃない? って思う。
 阪神タイガースだと、2019年期待されたボーアは結局年俸に見合う活躍が出来ず自由契約になった。今年やってきたロハス・Jr.は韓国リーグのホームラン王で打点王。いつ来る? いつ来る? と心待ちにしていたが、まだ日本の野球に馴染めていない。(2軍でバンバン打っているみたいなのでもうそろそろあがってくるかな?)
 プロ野球選手だけじゃない。私たちだってそう。馴染めるか馴染めないかで自分らしさや持っている力が発揮できるかもしれないし、できないかもしれない。やっぱり誰かの役に立ったり、誰かの幸せに貢献できたらうれしいもので、それが自分らしくあることで叶えば、なお素敵じゃない? って思う。それには、身を置いた場所に馴染めるかどうかってのが結構影響ありそうだけど、それはがんばって馴染むことが重要なのではなく、果たして自分が馴染むのかということに気づくのが、やっぱり大事なのではないかな。
 言うのは簡単だけど、自分の事を冷静に気づくというのは難しく、なかなか自分の置かれた状況やその姿を俯瞰して見ることができないものだ。

 そういえば、ドラマ「俺の家の話」で離見の見(りけんのけん)を体現する場面があったなぁ。プロレスラーと能楽師の二足の草鞋を履く主人公の寿一(じゅいち)がプロレスラーの姿で能楽氏である自分を見て、能楽師の姿でプロレスの試合へ向かう自分を見るという場面。この時の寿一のように自分自身を俯瞰して見ることを「離見の見」というらしい。室町時代の申楽師である世阿弥が書いた「風姿花伝」の中にある言葉で、自分を離れ観客の立場で自分の姿を見ること、つまり自分自身を俯瞰して見ることを語っている。

 自分の心の中を冷静に見れるように、でも内側だけでなくまわりの反応やまわりの出来事などの外側に対しても、一歩引いたところからその現象を、ただの現象としてとらえる。そうしたら自分がそこに馴染んでいるのか馴染んでいないのかが見えてくるのかもしれない。馴染んでいる自分がいたならば、それは「自分らしく」いられているのかもしれない。
 人は歳を重ねていくと、前を見ることばかり求められ、目の前で起きることに一喜一憂してしまいがちで、自分の後姿を見られなくなっていくもの。
 ときに振り返り自分自身を俯瞰して見ること、客観的に第三者の目で自己を見つめることで、いろんなものをとっぱらった状態で自分の本当の気持ちに気付けるのでは……

 自分らしくいられることが大前提で、そこで俯瞰して自分を見た時、周囲に馴染んでいたとしたら、それは素晴らしい状況なんだろうなぁ~と思う今日この頃。


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