1億分の1。
数え出したらきりがないから、逃げるように思考を止めることがある。
高校時代、友だちと騒いで店員に怒られたファミレスや、同級生がバイトしていたコンビニ。いつの間にかなくなったガソリンスタンド。埋め立てられた池。
成長し、行動範囲が広がっても、家の周辺にあったものなら記憶に残りやすい。とはいえ数ヶ月も帰っていなければ記憶の中のいくつかのものが消えるし、新しい何かができていても何ら不思議はないから、どこの何がなくなったとか、あのお店はいつからあったかとか、数えだしたらきりがないから、去来する想い出の数々を頭から払い除けて、迎えの車を待つことにする。
まだ来てはいないかと送迎と思しき車たちを見渡し、ふと目をやった先には真新しい焼肉屋があった。私の記憶によるとそこは、駅前で唯一の大きな2階建ての一軒家で、古い居酒屋だった。
『高校の同窓会って、いつもここだったなー』
またこうして一瞬で想い出の海に呑まれていった私を救うように現れた迎えの車にキャリーケースを突っ込んで、さっさと助手席に滑り込む。ただいま、と母に告げると、おかえり、と言いながら車を走らせた。
『あそこ、焼肉屋になったんだね』
「そうだよ、ここ一年、ずっと閉まってた」
変わらないものなど、何もない。世界はそうやって回る。
だから、変わったものも変わらないものも、数えたってきりがない。
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「どこ行ってたの!?」
『お仕事だよ』
仕事を終え、久しぶりに帰った実家で、甥っ子たちに咎められたのは予想通りだった。最近ちっとも遊んでくれない私に文句を言いたげである。
ダイニングの椅子に腰かけてふと顔を上げると、水槽が目に入った。
『…?水槽、大きくなってるよね?』
「そうだよ!クリスマスから!」
カウンターの幅に収まっていたはずの水槽は、今はカウンターの端から数センチはみ出ている。クリスマスに買ってもらったそうだ。この水槽には3匹の金魚が暮らしている。
以前、得意げに教えてくれた金魚の名前は、一匹は ”2号” という。甥っ子二人の名前を合体させた名前の金魚が一晩で死んだため、翌日同じ種類の金魚を買ってきた。だから、2号。そして残りの2匹は、”ハウル” と ”マルクル” という。某有名映画の登場人物を丸パクリした名前だが、なぜその名前にしたのか、理由までは知らない。
生き物は飼わないという方針だった。それが金魚とはいえ生き物を飼うことになったのにはいきさつがあったはずだが、実家とはいえもはや人の家のことだからか、全く覚えていない。きっと、私の頭の中の忘却のミルフィーユのどこかに挟まっているに違いないが。
2号とやらの近くに指を当ててみると、近づいてきて口をパクパクさせた。きっと私は、1号も2号も見分けがつかなかっただろうけれど、名前までつけて可愛がっている彼らのためにも長生きしてねと。
字幕のような願いが浮かぶのだった。
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変わってしまったものを憂いても仕方がないのだけれど、変わってしまったんだなあという、ひたすらどうしようもない現実を前に、喉元で寂寥という静かな波が立つのを、感じることがある。
「コース料理は大人7名様でお間違えないでしょうか」
”8” という数字が定番だった私たちの世界で、1人分のコース料理が注文されていないというシンプルな現実がどうしようもなく寂しくてならない。そう誰もが同じように感じていながらも、誰もが同じように氣づかない振りをして、テーブルにつく。
3人の友人がそれぞれ子どもを連れてきたので、大人7人、子ども5人。合計12名で埋められた個室は賑やかだった。過去一、人数の多い身内の集まりのそれは、もうあの頃と同じ ”8” にはなれない現実を、ホールスタッフの言葉を受けて全身で感じていた。
亡くなって3カ月。7人になってしまった私たちは、新しい年を迎えた。
毎年誕生日にもらっていた『お誕生日おめでとう』のメッセージも、毎年必ず元日に届いた手作りの年賀状も、今年から届かない。永久に。
皮肉にもあんなことがなかったら、こんなふうに旧友たちと集まることはなかっただろう。こうしてワイワイと集まって過ごすことを一番望んでいたのは彼女だったはずで、彼女が集めたようなものなのに。
当の本人はどこにもいない。
子どもの成長は早い。ついこの前会ったときはもっと小さかったのに。走り回るし綺麗に塗り絵はできるし自己紹介もちゃんとできる。子どもらしかったり、子どもらしくなかったりする言動や行動がいちいち可愛くて、ついつい箸を止めて愛でる。
さっさと食事を終えた子どもたちは、子どもたち同士でなぜかじゃんけんをし始めた。何かを決めるためではない。ただ、ひたすらじゃんけんをしていた。勝負が決まるたびに大笑いをし、すぐさまじゃんけんをし始める。「もうちょっと静かにして!」「何が楽しいんやろうね」と言いながら、大人も笑っている。
意味のないことで笑い転げてお腹を抱えている姿は、あの頃の私たちと同じだった。
笑っているのを見て、つられて笑ってしまう。全力でひたすらじゃんけんをし、勝っても負けても全力で笑い転げる子どもたちを見ていたら、喉元にあった寂寥という静かな波は、少なからず凪いでいく。
変わってしまった。
良くも悪くも、世界はそうやって回っていく。
仕方のないことなんだけど。
ここに、いて欲しかったよ。
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『いつぶりだっけ?』
「んー…もうわかんないくらい前じゃない?」
『お元氣そうでよかった』
「いやいや私めっちゃ…」
『何?』
「老けた…!」
『何それ、めっちゃウケる』
同窓会、仕事の打ち合わせを終え、お次は高校時代の友人と食事に出かけた。長年勤めた会社を辞め外資系の会社に転職したという、自称老けてしまった彼女とは、おそらく2年ぶりだった。ちなみに、『相変わらず毛穴が見当たらない…』と思ってその顔面を見ていたことは内緒。
「ていうか、なんで私に何も告げずに京都に移住してるの!?」
『許可制だったっけ?』
「私はこんなにハナのことを愛しているのに!」
『その感じ、相変わらずで安心するわ』
「私バスでハナの家の近くを通るたびに思い出してたのに!会いたいなーって思ってたのに!何か月も前にいなくなってたってどーゆーこと!?私すごい可哀想じゃん!滑稽じゃん!ピエロじゃん!」
『何それ、めっちゃウケる』
「連絡もくれないなんて!」
『自分だって連絡してこないじゃん』
「ハナはそういう人よね…」
『わかってるじゃん』
私のことを愛してやまない彼女は、変わらず私を一途に愛してくれているらしい。ひとしきり愛が重いキャラでいつものようにキャンキャンと騒ぎ、飽きた頃にドリンクが来たので乾杯をした。
『仕事、転職したんでしょ?どう?』
「うん、まあ、かくかく、しかじかで」
『まあ、しょうがないよねー』
「そうなんだけどねー」
『でも、生きててくれたら、それでいいよ』
「で、なんで京都?」
『んー、かくかく、しかじかで』
「で、私いつ泊まりに行ったらいい?」
『私が招待したらじゃない?』
「そんな日は一生こないじゃん!」
『わかってるじゃん』
変わったのに、変わらない。
会話のテンポ。ボケ方。ツッコミ方。笑うところ。
心地良い。懐かしい。
でもなんか、それだけじゃない。
「お正月で帰ってきたの?」
『それもあるけど、昼間は大学の同窓会だったの、身内で』
「そうなんだ、もうあんまり集まることないよねー」
『なんでかって…一人、亡くなったからね』
「マジで」
『うん、自殺』
「そっか…」
『…似てるのよ、ちょっとタイプが、あなたと』
「似てるとは?」
『一つのところに真面目に勤めて、責任感強くてストレス抱えて、仕事を辞めたところ』
「ああ」
『それだけで心配してたわけじゃないけど、転職したー!って連絡が来たとき、生きててよかったって、心底思った』
「なるほど」
『今日もそうだったんだけど、こういうことがあると、残された者の結束が強くなるんだよ。些細なことでも何かあったら言ってねって、みんな、なる』
「そうだよね」
『まあだから、何かあったら言って』
「…私さあ」
『うん』
「昔ハナに、今〇〇にいるんだけどって連絡したときに、すぐ来てくれたの、嬉しかったよ」
『え、いつ?そんなことあったっけ?』
「あったよ。すぐ駆けつけてくれた」
『そうだっけ』
「追い詰められたら人間、何するかわかんないけど、ハナが聴いてくれるのわかってるから、たぶん、ちゃんと連絡するよ」
お店を出ると、「え、地下鉄で帰るの!?ここでお別れ!?やだ寂しい!!」とうるさいメンヘラな彼女と、一駅だけ歩くことにした。彼女は自転車を引きながら、「夏に泊まりに行くから!」とまだ騒いでいた。やいのやいのと騒ぐ彼女を「暑いからヤダ」と華麗に振って、『ハイハイまたね』と言って地下へと続く階段を下りた。踊り場で振り返ると、階段を覗き込みながら手を振る彼女が見えた。
電車の中は、相変わらずくたびれた人たちが詰め込まれているかのようだった。
相変わらずのやりとりを数えて、しばらく失われていた安心感と出逢い、相変わらずの電車内を見渡して、私も同じようにくたびれた。
変わったものも変わらないものも、数えたってきりがない。
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翌朝は、母と早朝に家を出た。車で3時間はかかる場所までお墓参り。
お墓には、母の父、つまり私の祖父ともう一人、納骨されている。私の叔父にあたる人だが、会ったことはない。
2歳で亡くなった、母の弟。
「リンゴ持ってくるの忘れちゃった」
『なんでリンゴ?好きだったの?』
「あれ、言ったことなかった?」
『うん、知らない』
「2歳って、まだだいぶ小さいでしょ。寝る前に、リンゴを食べたいって、せがまれたの。でも寝る前だったから、「明日剥いてあげるから、今日はもう寝んねしよう」って言って、寝かしつけたの。だけど、翌日、亡くなった」
『そうだったんだ…』
「お母さん、何年もリンゴ、食べられなかったんだ。あの子に食べさせてやりたかった」
母とその弟は年齢が離れていたため、忙しい両親の代わりに母はよく面倒を見ていた。私たちが幼い頃、母がリンゴを剥いてくれる度に、私たちに食べさせる度に、弟のことがいつも頭を過ぎっていたのかと思うと、のんきにリンゴが好きだったのかと聞いたこの喉は締め付けられた。
何十年と親子をしていても、お互いに知らないことはたくさんある。私の知らないところで、さまざまな苦労や後悔を背負いながらここまで生きてきたこと、それでも生きる中で喜びを見つけながら育ててくれたことが、手を合わせる母の横顔から伝えられたような氣がした。
長年、リンゴが食べられなかった。
母らしいと思った。
私の母は、そういう人だ。
そう、そういうところは、変わらない。
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「どこ行ってたの!?」
『お墓参りだよ』
この日も、甥っ子たちに咎められるのは予想通りだった。帰省したというのに出掛けっぱなしの私に文句を言いたげである。
今日はサッカーの試合で一点決めたのだと得意げに話す甥っ子を褒めながら、ダイニングの椅子に腰かけてふと顔を上げると、水槽が目に入った。
『…???え、金魚、増えてない?』
「そうだよ!」
この水槽には、3匹の金魚が暮らしていたはずだが、5匹に増えていた。
『へえ…なんて名前?』
「ジャック!」
『なんか強そうな名前だね…』
「目の色が違うんだよ!」
目の色が違う…?
水槽に近づいてよく見てみると、一方の目の色が赤く、一方が青い。こんな金魚いるんだ…と感心してみていると、数時間前にホームセンターの金魚コーナーで、店員さんから仕入れたばかりのネタを披露してくれた。
「犬でも猫でも魚でも、左右の目が違うのは珍しいんだって!1億分の1なんだって!」
オッドアイのことを言っているようだが、いくらなんでも1億分の1なんてことはないだろうと思った。さらっと調べてみたが、1億分の1という記述は見当たらなかったので、店員に盛られたんじゃないかと思った。日本の人口なら1億2000万くらいだが、金魚界の数はわからない。しかしこんなことを得意げに話す幼氣な甥っ子には言えなかった。
「明日、帰っちゃうの?」
『うん』
「何時に出るの?」
『うーん、10時くらいかなあ』
「じゃあ、僕が学校行く前に会えるね!」
『そうだね』
こんな愛おしいやりとりもまた、いつか失われるやりとりだ。『君とこうしてこんなやりとりができているのは、それほど奇跡的なことなんだよ、それこそ1億分の1なのよ』と伝えたところで、君はよくわからないという顔をして、「何言ってんの」と可愛くないことを言うだろう。
だから今はまだ、『おやすみ』しか言えない。
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暗闇の中に浮かび上がっていた赤い直線が、ゆっくりと確実に消えていくのを見ていた。
私がいつも寝泊まりする和室はエアコンがないから、母が遠赤外線ヒーターを帰省した初日に持ち出してきて、置いておいてくれた。私がお風呂に入っている間に点けておいてくれたらしいヒーターをオフにして布団に入り、ふう、と息を吐いた。
誰かがいなくなった悲しみも、できなかったことへの後悔も、変わらないものがくれる安心も、昔々からもらっていた優しさも愛も。
喜怒哀楽。安堵。焦燥。変化。不変。愛。無。エトセトラ。単語一つに集約してしまうと無味乾燥で、ちゃんと名前を付けようとすれば潜っても潜っても底が見えない海のように際限がなく、きりがない。
名前があったってなくたって、いつもこの身体の。心臓、細胞の。私を構成している何かの、どこかに。確実に刻まれている。1億分の1の確率で、人に出逢い、関わり合い、愛し愛され傷つけ合って、何かを刻み合い、生きている。
私がいなくなっても、思い出してもらえるだろうか。あの時こう言ってたねとか、あんなことで笑い転げたよねとか。1億分の1だもんな。少しくらい、誰かの心臓や細胞、想い出や記憶に。できたら愛を、刻めるだろうか。
何も言わずに部屋をあたためておいてくれた母の愛のように、暗闇の中の赤い直線がたとえ消えても、贈った愛だけは残るようにと。また取り留めもない想いが浮遊して散り散りになっていく。
数え出したらきりがないから、逃げるように目を閉じて。
金魚と泳ぐ、夢を見る。
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お久しぶりです。
久しぶりすぎて読んでくれる方がいるのか不安すぎる…笑。
2023年になって早3週間…。はや…。
年始のご挨拶もできないまま、時が流れていきました。
本年もよろしくお願いいたします。
また定期的に書けるといいなと思っています。
相変わらずの独り言のようなものですが、
良ければ読んでやってください。
言葉の海 hana