ヨロコビ(序章)
喜び、と言う感覚を忘れていた気がする。
きょう、いつものようにふらついていた時に降ってきた言葉
「みんな、自分を喜ばせるためにここにいるのかもしれないな」
別に、特別な場所にいたわけじゃない。
最寄駅、駅前のルミネを、普通に歩いていただけだ。
色とりどりの、バッグや服、アクセサリー
おいしそうなもの、たのしそうなもの
真剣に選ぶ人たちや、なんだか笑顔の二人連れ
ふつうの、きわめてふつうの、日常のひとコマ
そんな当たり前の、ありふれた景色のなかに
「やっぱり好きなものを身につけているとアガるんだよね」って
これもまた、あんまりにもありふれた
ちょうど読んでいたWebマンガにあった一言がふわっと突然に重なって
ああ、ここにいる人たちは、みんな、自分や誰かを喜ばせたいんだ、って気づいた
同時に
あれ? わたしさいきん喜んだかな?
って、思った。
むすめたちがいるので、毎日は喜びや笑顔に溢れてもいるんだけど
そういうのではなくて、自分で自分を喜ばせることはできているかな?って。
むすめたちのくれる喜びが大き過ぎて、個人のものは小さく感じるのかな?
とも、おもったけれど
ふと、自分の着ているものや食べているものを思い返すと
「今の生活だとこんなもんか」とか
「こんなとしで、こんな体じゃこれでいいよね」とか
そんな判断基準にまみれていることに、気づいた。
このごろ喜んだこと、って、もしかしたら
「欲しいものに近いものが安く手に入った」とか
「半額見切り品キャベツラッキー」とかだった気がする。
(現在休職中につき、金欠です)
……それって、喜び、なのかな?
最近、すごく思うのは
ひとは、自分の巣を自分の好きなように作ることが必要 ということ
自分の好きなもので自分の世界を形作って、そこで安らぐ
その、居心地の良いスペースを得ることができなければ
その先の活動は十分には成し得ないのではないか、ということなんだけど
これはきっと、喜びを受け取るために、必要なことなんです
足元がふらふらスカスカぐちゃぐちゃだと、欲しいものすら見えてこないんですよ
このへんのことを、しばらく考えてみたいと思います
もうちょっと、深掘りしてみますね
(あしたにつづく