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会話欠乏症により、保持できなくなるもの

あんまりに日常生活で会話が成り立たなくて死にそうだとTwitterで愚痴ってたら
「会話しないと人間は人間として成り立たなくなっていく」
みたいな話になったのですが

ああ、そうだよな、って異様に深い納得を得てしまいました

あれ、あの、痛みみたいにズグッと心に刺さってくるタイプの納得。
破瓜の痛みかのような、じわりと滲んで変形してしまったかのような、痛みがある
そういう「タチの悪さ」のあるタイプの、深い深い、なっとく。


確かに「会話をすること」って、それ自体がすごい快楽でもあり
最も気軽で手軽な自己表現でもあり
最も手軽で直接的な承認を得られる行為でもある。
「適当な日常会話」ができる環境にないと、それを強く強く実感するのだ。


うん
誰とも頬ほぼ会話しないとか
会話できる相手はひとりだけとか
パートナーと一切会話が成り立たないとか

そんな環境で過ごしてきた時間があんまりにも多いからよくわかるんだ


「会話」って、本当に誰にでもある人間の基本機能なんだけど
実は筋トレみたいに日々の鍛錬が直に反映されるし、衰える
会話の機会を持てないと、反応もできないし、細かい技術が失われていくのだ
ちょっとした切り返しや、タメのような、何気なく使っている小技がすぐ消えるし
相手の意図を読み取る能力もどんどん落ちていってしまう(特に言外の意味を)
それに負けると、そのまま会話から逃げていってしまったりもするかもだけど
落ちたところからあげる過程を一度踏むと、どれだけ高度なことをしていて
どれだけのものをそれから得ていたかを理解することができます。

まあそういうのは会話に限らず、ですけどね。
なくしてわかる云々って、よくありますよね。
そういうのって、ほんと、ある意味エゲツナイ。
「よくわかる」じゃないんだよね
「見せつけられる」的な、アレ

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綺麗なV字回復とかもあり得ないしね
うねうねジリジリしか回復しないのが普通

あったものがないものとして目の前にあって
しかもそれですごく困るって、とても心によろしくない

会話が減ることの害にはそういう喪失もあるのですけど
一番大きいのは

相対の対象が失われること、なのかもしれません


「比較」というのは対象がいないとできないことであり
そして「線引き」も同じです
他と接することがなければ、線は引く意味を失います。

他者とのキャッチボールが生じることで人は自分の輪郭を毎秒毎分、引き直しているのではないかと思うのです。そうしないと、少しづつジリジリと輪郭は溶けていってしまうから。

「他人は自分の鏡」とか、よく言います
会話や交流にしか写せない自分の姿というものがどうしても存在していて
それを写す鏡は、他人=他の人間 にしかできないことなのです
だから、人としての、輪郭が曖昧になっていってしまう…んじゃないでしょうか


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わたし、今結構な会話欠乏症なので
毎日「ありがとうClub house!!」と思いながら生きていますがね
(忙しすぎて全然入れないけど、入れるところがあるだけで救われてる)


会話が成り立たない相手と会話することによって失われるもの。というのも今後理解していけるのかと思うと、ちょっとだけワクワクです。


目下の目標は、子供たちをちゃんと会話できる生き物に育て上げることですかね。
楽しく対等におしゃべりできるまでには多分あと10年以上はかかるのだけれど
そういう生活を、いつか手に入れられればいいなと思いながら
毎日、言葉を教えたり絵本を読んだり、しているのでした……


いつか、そんな日を、取り戻せたらいいな
いや、取り戻すけどな!!

サポートいただけたらムスメズに美味しいもの食べさせるか、わたしがドトります。 小躍りしながら。