ある小学校教諭の転職
分かりやすくするためにこのタイトルになっていますが、この表記は正確ではありません。小学校教諭といっても正規の教諭ではなく、臨時的任用職員、いわゆる講師と呼ばれる立場だったからです。正確な日付を書くと身バレするので、約一年前としておきますが、自分はうつ病になり、小学校の先生を続けていくことが出来なくなりました。なので転職という表現も正しくありません。うつ病で退職してからの再就職だからです。この記事はそんな元講師の約1年の記です。
さよなら絶望先生
そもそも自分がうつ病になるのは今回が初めてではありません。大学を出た教員1年目にもうつ病になって職を辞しています。詳細は省きますがそんな事があったので、復職してからも自分のメンタルにはかなり気を遣っていました。都道府県によって違うようですが、私の勤めた県は講師の立場だと必ず1年で職場を動かなければならず、毎年毎年新しい環境に慣れるだけで大変なことは分かっていたので尚のことです。
その年の職場は割と歴史の長い古い小学校。担任した教室は角の部屋で、夏場はエアコンもなく35度超え、雨漏りもするような状態でした。環境が良くないのはどこの学校も大体一緒ですが…。
5月前半には陸上大会があるというので早速4月から朝練習が始まりました。勤務時間外のボランティアも毎年のことで慣れたもの。ただ5月後半に運動会のある学校だったため、そのあたりが重なりだして忙しさがピークに。計画自体に無理があり、児童のためというお題目を掲げられて当初の計画にない急な仕事(事前に分かっていない仕事って余計に疲れるんですよね)が時間外に入ることが多くなり、5月、6月と残業が100時間を越えて体調を崩し始めました。
また、人がやたらと教室に出入りすることが精神的にキツかったですね。校長は散々長時間労働が問題になってるのに「教員の働き方改革とは、専門性の育成である!」とか宣う人で元から苦手だったのですが、しかめっ面で教室に入ってきて、足りないところを授業してる最中に指摘してくるので閉口しました。時間外に打ち合わせを持つことも割と平気なのも閉口ポイントでしたね。
学年を組んでいた先生はもうベテランだったのですが、それぞれの学級にきょうだいがいて、あまり差が付かないように大分気を遣いました。というか遣うように言われました。勿論ベテランの先生と同じ授業、児童対応をしていくなんて無理な話なんですが…。
栄養士の先生はやたらと食のマナーに厳しく、配膳されるお皿やお箸の向き、位置をいちいち怒って指摘する人でした。今どき時間が遅れても児童を残して完食させたり、それでいて遅いと私の指導力を非難する有様。児童が「栄養士の先生が怖くて給食の時間が楽しくないです。」と私にこぼしたのを忘れません。私も給食が楽しくないを通り越して味が感じられないと思ったのは初めてでした。
他にも特別支援の通級児童がいたので、特別支援の先生も出入りするし、挙げ句には地元に住む元教員という方がボランティアでチームティーチングに入ってきてくれたのですが、立場を越えて物を言うこともあり、正直有り難迷惑でしかありませんでした。
とどめは教育長が授業を見に来たときに失敗して、その後も教育委員会が定期的に授業を見に来るようになったことですかね。もうその頃には授業改善どころではなくメンタルが落ち込んでいて、日々の仕事を回すのがやっとでした。
チーム学校と言われますが、船頭多くして船山を登る状態だった気がします。
そこまで行く前にちょっとヤバいな…と思い始めた頃には精神神経科へ向かっていました。今まではヤバいなと思っても、お薬の服用で何とか復調していたのですが、今回はそうもいきませんでした。
まわりに指摘される度にどんどん教師としての自信を失い、メンタルの不調が身体に影響を及ぼすように。頭にもやが掛かったような状態が続き、どんどん身体が重くなってゆく。段々と眠りが浅くなり、夜中に何度も目が覚めてしまう状態に。夏前の教員採用試験の頃には仕事を辞めたいと思うくらい辛い状態に落ち込んでいました。採用試験も申し込んでいたから受けたものの、当然本領を発揮できるような状態ではなく、落ちるのは当然の帰結。落ちるのは分かっていても否定された気分になるものです。それでも夏休みまでは何とか持ちこたえ、夏休み中も教員免許更新のための講習を受けに。最早何のために更新するのか分からなくなっていましたが…。
校長、教育委員会には体調が芳しくなく、仕事を続けられないかも知れない旨を報告していて、それでも自分で何とかしようと病院を新たに紹介して貰って詳しい検査を受けたり、お薬を増やしてみたりしていました。結局は夏休みぐらいでは良くならず区切りの良いところで担任した学級の子どもたちとも特にお別れせず、退職する旨お手紙一枚出してバタリ。講師は正規教員と違って、病気になっても長期休暇を貰える制度がないのでした。
あしざまに書きましたが自分に教師としての適性が無かったのか、環境が良くなかったのか、努力が足りなかったのか、未だによく分かりません。ともかく結果として教師としての自信を失い、うつ病になって仕事を続けられなくなってしまったのです。
長い長い育休
細君には本当に迷惑をかけたと思います。息子が生まれて間もない時期で、旦那が仕事から帰ってきたらいろいろして欲しかっただろうに、帰って来るなりぐったりため息ついてるんですから。
お仕事を辞めて療養に入ってからはからは出来る家事から細々と。息子ともテレビを見たり、公園に遊びに行ったり。息子もいる手前、規則正しい生活と笑顔でいることは心がけてました。
お陰で自分の中でNHK教育3チャンネルから、Eテレ2チャンネルにアップデート。地デジ化から何年経ってるんだって話ですが。
あとは2週間に1回通院してましたが、待ち時間が凄く長くて閉口でした。それだけ精神神経科が人気なのも闇を感じます。実際待合室で同業っぽい人も何回かすれ違いましたね。教員業界は年間5000人が精神疾患で休職するというのも頷けてしまいます。
細君には仕事してたときは帰りが遅くて迷惑をかけてましたが、療養のためとは言え、家にずーっといるのもどうだったんでしょう。細君から愚痴は聞いたことないですが…。
それにしてもメンタルをやられてからというもの、趣味をしても楽しくないし、大好きだったお酒も美味しくなくなってました。そもそもメンタルのお薬はお酒と併用できないから、強制的にしばらく禁酒だったのですが。人と会うときだけ心配させないために飲んだりしてましたね。あとは何をしてたっけな…。時間はたくさんあったのですが、何せやる気が全く起きない状態だったので。
そんなこんなで時間だけが経ち、休暇に入って5カ月くらいでようやく睡眠薬を飲まなくても眠れるようになりました。
第二の人生に向けて
お休みの間は傷病手当でなんとかやりくりをしていました。辞める前のお給金の3分の2が1年半貰えるシステム。国民年金と健康保険払って生活費出しても、ギリギリマイナスにならなかったのは幸いでした。ただでさえ働いていない無力感に、貯金がただ減り続ける状態はメンタルにくる…。
お薬飲まなくても大丈夫だと言えるには働いてみないといけないわけですし、傷病手当が貰える1年半という期限を見越して、不安ながらも細々と再就職活動を始めました。小学校教員はやりたくてやっていた仕事だったのですが、そのやりたい仕事にぽっかり穴が空いてしまった状態で何をしようか分からないままの状態でのスタート。家族を養えるだけのお給金、それでいて自分の力を生かせそうな仕事とは…?それっぽいサイトに登録したり、息子連れてハロワに行ってみたり。
何件か面接もしましたが。正直に鬱で教員辞めましたって言ってるうちは落ち続けました。そこを黙ってたら受かったわけですが、何件も同時並行で受けず、一件受けて結果待って分かったら次ってスタイルだったので、新しい仕事が始まるまで半年くらいかかりました。やはりメンタル面の不安はオープンにせず、クローズドで受けた方が受かりやすいんですかね。
こうしてなんとか生協のおにいさんとしてのちょっと早い第二の人生が始まりました。まだ時々お薬を飲みますが、頻度は劇的に落ちています。お酒も味が分かるようになりましたし、趣味もちょっとずつできるようになりました。
ただ自分が何をしたいのか、何が楽しいのかは見失ったままです。減った給料という面でも、病気の再発という面でも、これから先どうなるのか不安も多分にあります。
教員免許はありますが、教育界に余程の改革が起きない限り(精神疾患で辞める教員が減りますように!)、教員には舞い戻らないでしょう。子どもの頃からの夢だった職業に一度は就いて、子どもに感謝される経験は出来たわけですし。
自分を見失っているのなら、まずは家族を支え、支えられながら、父親として・旦那としてやるべきことをしていくのが良いですね。その中で、一人の人間としての楽しさをまた見つけられればと思います。
あの時転職して良かったと思える日は来るのかなぁ。
ここから先は
¥ 100
チップでの応援、励みになります!